第112回 『学校の歌ができるまで』 1

  • 2003/10/21(火) 17:00:00

・昭和55年4月、青木校(富士宮市)の講堂に整列した95人の訓練生の数に、私は圧倒されていた。95人の人たちの前には、7班を担当する7人の第一講師が座っていた。紺系のスラックスに、訓練生と同じ白い訓練服を着用し両者見分けがつかなかった。ただ胸に着けた小さなネームカードの色が違った。両者を分けるもう一つのものは講師の首に黒い紐が懸けられ、胸のポケットに滑り落ちていた。ストップウォッチの黒紐が不思議な権威を持ち、人々を威圧していた。
・前号で私は95人の訓練生が、驚きの目を講師陣に送っていたと述べた。それは講師の首の黒紐に対してでは無かった。彼らの目は7人のうちの二人の講師に注がれていた。二人は女性であった。一人は30代半ば、一人は20代半ば…。二人とも静かに背を伸ばしていた。
・この二人は青竹庵の研究員だった。講師ができると判断し、育成していた。利用できるものはすべてを戦力に変えていたと先号で述べたが、この二人もその例であった。いや、二人は男性講師以上に戦力であった。なお前号で、20代前半の女性研究員が東京から富士宮市に移転したと伝えたが、その数は二名でなく三名であった。

【 訓練生とともに初めて校歌を歌った 】
・この日、学校の旗が完成し校庭で旗をはさんで私と元橋校長の写真があったと、校長より電話があった。すると校旗は国旗と共に校庭に翻り、入校式では講堂にも掲げられたはずだ。校旗は若鷲がシンボルマークをなっていた。校歌の詩の一節に若鷲があり、これをシンボルマークと指示したのだった。
・管理者養成学校校歌がいつ出来たか、はっきりしなかった。私は昭和54年12月に青木校を初めて視察した。冬枯れの寒々とした光景が広がっていた。校歌の詩はこの時の印象をテーマとした。

(一)
春いまなお遠く 風すさぶるところ
冷たき冬の水 この身を沈め
力なき者らが スクラムくんで
男の心すべて 捧げて悔いなき
君よその名をあげよ 若鷲よ

(ニ)
涙すでに涸れ果て 汗は血潮となりて
暑き真夏の太陽 この身をさらし
傷つける者らが 涙と汗で
管理者養成学校 管理者養成学校
君よその志をとげよ とこしえに

(校歌:財部一朗作詞、元橋康男作曲)

・校旗が4月1日には完成していたとするなら、校歌は2月か3月に完成したに違いない。するとこの日の入校式で、訓練生とともに私は初めて校歌を歌ったはずだ…。

【 私が実際に実演してみせた 】
・この日からほぼ一年間、時間を見付けて青木校に行き、私は現場で講師を訓練した。まず第二講師に指導のやり方を徹底して稽古を付けた。次に彼らをつれて7つの班を廻り、教えた事を実演させた。彼らの指導が間違うと生徒の前で容赦なくやり直しさせた。何となく地獄流だった。また私が実演してモデルを示した。次に第一講師に交代させて稽古した、朝から晩まで。地獄の訓練生は大変だが、講師はそれ以上に大変だった。
・私はセミナーであれ学校であれ講師や教師の経験は皆無であった。が、私にはその種の能力に恵まれているようだった。富士宮には何度も通い、訓練のやり方をチェックし、問題のある箇所を探し、その解決を工夫した。こうして学校の訓練の品質は向上した。(この項、続く)

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