第114回 『地獄の訓練が出来るまで』 9

  • 2003/11/04(火) 15:40:00

・昭和55年春、青竹庵で私はひとり上級訓練コースの開発に取り組んでいた。富士宮の学校では訓練生の増加に伴い、教官の採用と養成が急ピッチで進められていた。訓練を指導するため、私は時間を作って学校に通った。学校に一歩立入るとあちこちで散歩訓練や体操訓練が行われ、気持ちよい挨拶がかわされていた。
・ある日、学校を巡回していると、学校を見学に来られた経営者に紹介された。ドトール・コーヒーの鳥羽博道社長であった。キビキビと移動する訓練生を見やって「ここは別天地のようです。すがすがしい気持ちで一杯です」と誉めていただいた。「ドトール・コーヒーという社名、ダイナミックで素敵です。どういう事で付けられましたか」鳥羽社長によるとブラジルのリオデジャネイロに住んでいる時の、通りの名前という事であった。あれから23年たったんだ。この間ドトール社は躍進され東証一部に上場された。教育は変わらず当社をご利用頂いた。鳥羽氏とは同年兵というよしみで折々の交流を頂いた。

・学校へのマスコミの取材は続いていた。おかげで訓練開始一年の7月1日コースには134名の訓練生が入校した。この期の訓練にはNHKテレビが取材に入った。学校の訓練はこれで全国区となったようであった。23年前の映像はあまり覚えていない。画面には白い訓練服が印象的であった。訓練服について記述するのを忘れていた。昭和54年頃、当社のコンサルタントがインドを旅行した時の土産であった。詰襟の国民服のようなジャケットであったと思う。NHKテレビで夜間行進訓練は放映されたであろう。「学校の歌が出来るまで」社員教育新聞3月1日号で私は次のように述べた。

【 軍用リュックと軍用水筒 】
・地獄の訓練がスタートして間もない昭和五十四年夏、日野市の青竹庵で財部は若い助手の帰りを待っていた。暑い中、やがて助手が秋葉原から米軍払い下げの軍用リュック、軍用水筒、戦闘帽を買ってきた。丈夫な生地、頑丈な作り、リュック・水筒はグッドデザインで彼は満足した。帽子はサンプルの中から、ドイツ空軍の戦闘帽を選んだ。
・訓練に夜間行進を行う計画は、初めからあった。これらの装備は行進用のものだった。白い訓練服に草色の装備をつけると、絵になった。何事も徹底するというのが財部の主義だった。歩く距離は四十キロとした。これも、半端ではない。例の助手が千葉県館山市に飛び、四十キロのコース、チェック・ポイントを設定し、略図を作った。こうして夜間行進の準備は進んだ。
・たぶん九月か十月頃、初めての夜間行進がフルメタル・ジャケット(完全軍装)で行われた。(中略)
・この頃、テレビや週刊誌のマスコミが学校を取材し、四十キロに苦しむ人々が着けるフルメタル・ジャケットは、奇妙な現実感でテレビや報道写真の絵となり、人々を魅きつけた。

【 地獄の訓練のマスコミブーム 】
・この年の秋、三本目の訓練コース、「上級訓練」が完成し、学校の骨格ができてきた。マスコミの取材はあい変らず続いた。地獄の訓練一期130人の訓練生は年間24期なので、ざっと3,120人になった。当時の訓練費は248,000円だったので、売上は7億7千万となる…。マスコミの威力は目をみはるものがあった。マスコミは、この小さな訓練をスタートとしてすぐに嗅ぎ出し、競って地獄の訓練を追いかけた。突然のこのブームは、いつまで続くのであろうか…。(この項、続く)

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