第250回 『 日本で最も潰れやすい会社 』 4
- 2007/12/28(金) 15:20:00
・私たちは地獄の訓練と養成学校が、テレビによって作られたブームであることは承知していた。そしてブームはいつか去る。それが去ったのは平成3年のバブルの崩壊によった。テレビは学校を放映しなくなって何年も経っていたから、私たちは二重に叩かれたのだ。
・この結果、私たちは売上の4割を失った。『4割減』それは厳しい数字と言うべきか、幸運だったと言うべきか。私は幸運だったと思っている。まず、あれは歴史に残る大不況だったのだ。二重に叩かれて『4割減』は幸運とすべきであろう。
・6割を維持できたのが幸運とするなら、それは何故起こったか。我々は学校において愚かと思える事を大真面目に取組んで来た。テレビがブームを作ったが、中味は空っぽでなくしっかり実が詰まっていた。テレビでは愚かに見える事も、多くの訓練生には必然だったのだ…。彼らは力を伸ばし、経営トップはそれを評価した。
・養成学校のマスコミ取材は昭和54年に始まって、ほぼ10年で一段落した。思えばよく続いてくれた。その中にアメリカのCBSテレビの人気番組、シックスティ・ミニッツが当校を取材放映した。これが不思議なお客をニューヨークから学校に運んで来た。ミロス・フォアマン。ハリウッドの映画監督。『カッコーの巣の上で』(製作昭和50年)でアカデミー監督賞を受け『Amadeus(アマデウス)』(製作昭和59年)で二度目のアカデミー監督賞を得た人物である。
【 舞台は何と養成学校のヘル・キャンプ 】
・当時ソニーがコロンビア・ピクチャーズ・エンターテイメント社を買収していた。そしてフォアマン氏との間に映画の話しが進み、氏は日本を舞台に撮影したいと希望した。その一つの舞台が何と養成学校のヘル・キャンプ『地獄の訓練』。もう一つが大相撲であった。
・平成3年のある日、フォアマン氏がプロデューサーと通訳嬢を連れて山の学校にやって来た。そして数日間、朝から晩まで熱心に訓練風景を見学していた。氏は訓練が気に入ったらしく、スタジオでなくこの学校で撮影の許可が欲しい。それも本物の訓練生を撮らせて欲しい…と。曲折はあったが私たちは氏の希望をおおむね許可した。
・それから、驚く事に三人は一年間学校に張りついてシナリオ作りを始めた。アメリカの青年が日本にやって来る。彼は機中で力士志望の青年と知り合う。主人公は東京で女性と知り合い好意を持つ。彼女が学校の女性審査員。彼女を追って富士宮に行き、彼は『ヘル・キャンプ』に入校する。
【 主人公はマイケル・J・フォックス 審査員は大竹しのぶ 】
・シナリオが仕上がるとキャスティングだ。主人公はマイケル・J・フォックス、審査員は大竹しのぶ。学校の校長に長塚京三、音楽は坂本龍一に決まった。そして撮影開始の日が迫ってきた。私は64〜5才の監督と度々会った。氏は私に『どんな小さな事でもいい。映画作りでおかしい事はすべて私に言って欲しい』と繰り返し言った。当社の映画製作で、私のシナリオを秘かに書き直した日本の監督と対立した私は、大監督の謙虚さにうたれていた・・・。(この項、続く)
第249回 『 日本で最も潰れやすい会社 』 3
- 2007/12/20(木) 15:00:00
【 見ろ!俺は世界に無いものを作った 】
・『 ピカンピカンの男に変えて 』の突出し広告は五段半載に変えた。地獄の炎をイメージした黒地に、白抜きで地獄の訓練が浮き出す迫力のある広告となった。この広告が後に月刊誌宣伝会議においてぢのヒサヤ大黒堂と共にワースト広告に選ばれてしまった。広告代理店の担当者に、『 これはどういう事?』と尋ねると、『それだけ印象深い広告という事です。喜びましょう』とかわされた。
・地獄の訓練の訓練生の数は相変わらず一期200人を超えていた。春から夏へのシーズンには月の1日と16日には全国から400人を超えるビジネスマンが学校にやって来た。これにつれて社員の数も400人を超えた。研究員が研修コースを作り、小売店ではなく当社の営業マンが100%販売し、14名で一班の班には二人の講師が張り付き、20項目にわたり審査員が一人一人を審査する。一方では賄いが三食を作り、営繕があり事務局がある。学校は99%手作りであった。
・今、製造業は機械が8割を作り、コンベアーやコンテナがこれを運ぶ。当社のビジネスは一般企業と一線を画した。『99%、…残り1%は何ですか?』と問われたら、『賄いで使われている自動皿洗機です』と答えるだろう。しかし、この99%がやがて重大な意味を持ってくる。
・テレビの取材は続いていた。『見ろ、俺は世界に無いものを作ったんだ。すると世界中が学校を見にやって来る』私は得意の絶頂にあった。
【 学校は即座に8割の訓練生を失うだろう 】
・学校には病人が絶えなかった。時に救急車で運ぶ事もあった。中高年の訓練生には持病はつき物であり、事前に報告頂く事になっているが、派遣責任者が知らないケースがあった。20人、30人の時はまだしも訓練生が300人、400人となってくると、病気の管理は重大なテーマとなった。持病には死に至る病もある。脳卒中、心臓発作、高血圧、蜘蛛膜下。そして学校には危険がいっぱいある事に気が付いた。夜間行進があり、転倒もある。火災だって…。
・もしも重大事故が続いたら、マスコミは学校に疑惑の目を向け、そのように扱うであろう。環境の激変で夜眠れず、一時的に心のバランスを崩す人がいる。彼がもし班友に人身事故を起こし、これがマスコミに流れたら、学校は即座に8割の訓練生を失うだろう。そして私には400人の社員がいる…。気が付いたら、私が作った会社は日本で最も潰れやすい会社だったのだ。しかも、もし会社が潰れたら、機械なら二束三文で売り払う事ができるが、99%の400人の社員はそんな訳にはいかない。『地獄』のネーミングは失敗だったと気がついた。しかし、あれなくしてこのドラマは生まれなかったが…。
・私たちは健康管理に全力をあげた。まず持病を持つ人の入校を制限した。夏期には午前10時から午後4時までは野外訓練は禁止した。早寝、早起き、昨夜の睡眠状況をチェックした。昼には30分の睡眠訓練を行った。医師による二度の健康診断を実施した。血圧の高い人は毎日検査した。冬はうがいと石鹸手洗を徹底した…。(この項、続く)
第248回 『 日本で最も潰れやすい会社 』 2
- 2007/12/10(月) 15:00:00
【 伸び伸び、ジタバタ、型破り 】
・13日間合宿『極限の訓練』はこうしてスタートした。講師はどうするか?こんな訓練が勤まる講師などどこに居よう。やむなく講師は私が二年余りかけて育てた社員を当てた。彼らはすべてに未熟だったが、訓練生を変えたいという熱い思いが未熟さをカバーしてくれた。
・さて、『極限』は果たして売れるのだろうか? 新製品らしく、それはボツボツとはじまった。7月、8月、9月、訓練は一ヵ月に一回、7名前後の訓練生を集めて行われた。
・早番遅番の二人の講師が13日間、ぶっ通しで貼りついた。訓練が終わって東京に帰ってくると、彼らは口々に『アー、地獄だ、地獄だッ』とボヤいていた。それを聞いて私は極限をやめて『地獄の訓練』にする事を思いついた。少し危険かなと思ったが所詮、7、8人の訓練生しかいない商品なのでネーミング変更の決断は簡単についた。また『伸び伸び、ジタバタ、型破り』が当社の社是でもあった。40代前半のトップの若さが型破りのネーミングを生んだのだ。
【 週刊誌が面白がって取材に来た 】
・次いで、私は日本経済新聞に突出し広告を出した。
「 13日間合宿地獄の訓練。一人の男に18万8千円のお金
と13日間の日数をお与えください。ピカンピカンに光る男に変
えてお返しします 」
・新ネーミングは幸い経営トップの心を捉えたようであった。それは何よりも分かりやすく、イメージしやすかった。訓練生の数が少しづつだが伸びていった。
・ところがこのネーミングに興味をもったグループが他にもいた。ジャーナリストである。昭和54年の暮れ頃だったろうか、静岡県富士宮市の山の中に、どこかの週刊誌の記者が面白がって取材にやって来た。そこで彼らは少なからず仰天したらしい。
・白い訓練服に紺のズボン、ドイツ空軍の戦闘帽。山の中で20人前後の中年男性が、活発に訓練を受けている。歌を唱い、スピーチをし、ディスカッションを闘わす。更にはスーツに着替えての駅頭歌唱。そして圧巻は駐留軍払下げのリュックを背にしての40キロ夜間行進、背景には雄大な富士…。
・記者は写真を撮り、訓練の様相を面白おかしく書き立てた。すると思いもよらぬ事が起こった。これを期に新聞社がすぐやって来た。他の週刊誌雑誌が来た。やがて民放テレビ局が来た。追いかけるようにNHKが来た。それから世界中のテレビ局がカメラをかついでやって来た。アメリカも英国もフランスもソ連も数十カ国が…。
【 本校が完成し、民宿から移動した】
・年が変わると一ヵ月一回の開催が二回になった。一期20人の訓練生が40人に増え、春には100人に達した。昭和56年に訓練生の数は200人を超えた。80人いた社員は200人を超えた。その頃、静岡県富士宮市の高台に200人収容の本校建設が急ピッチで進められた。
・上級コース、指導力コース、セールス特訓コース、新人コースと新しいコースが次々に開発された。『校歌』『式典歌』『地獄の友よ』『ああ夜間行進』『旅立ちの時』と訓練歌が作られた。詩は私が書き、校長が曲を付けた。講師の訓練技術は飛躍的に進歩した。昭和56年、本校が完成し、訓練生は民宿から移動した。こうして全てが本格化した。
・『地獄の訓練』は売れたのだ。昭和48年、54年の二つの石油ショックで苦しんだ脆弱な小企業が、強力商品を得て中堅企業に飛翔しようとしていた。もう会社は簡単には潰れる事は無い。私はようやく、経営に自信を持った…。(この項、続く)
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