第227回 『 意思決定と役員会 』 3
- 2007/04/27(金) 15:00:00
【 石だって磨けば光るかも 】
・できれば月初に今月いくら売れるかを知りたい。考え続けて私はようやく、営業所で働く120余名の営業担当にたどりついた。月初に、彼らはその月の自分の売上のおよその数字を予測しているはずだ…。獏とではあるが、しかし予測している事には変わりない。
・そんなものが当てに出来るのか。むろん当てにはできない。しかし情報源がこれしかないなら、ここを当てにするしかない。諺にあった。玉磨がかざれば光なし。石だって磨けば光るかもしれないではないか。磨けば光るという発想は、教育屋の私の身についた性らしい。こうして私は行動を開始した。磨けば光る教育システムを、果たして私に発見できるだろうか…。
・月初、まず私は部門長に通達し、営業担当一人一人に一ヶ月の売上予測値を出してもらった。そして部門毎に集計した。出てきた数字は部門によって凹凸が激しかった。次にその数字を部門長に適切と思われる数字に変えてもらった。数字が恣意的にならないよう、5月の見通しを作る場合には昨年5月の実績を参考にしてもらった。
・数字が決まるといよいよ表の作成である。まず縦長の紙の左端、縦の欄は部門名で、札幌以下10の部門名が上から下に打ち込まれる。次に横軸は日付で1日、5日、10日、15日、20日、25日、末日と打つ。そして1日の欄に、各部門の売上見通が打ち込まれる。そしてその集計が会社の今月の見通しであった。
【 営業に見込み違いはつき物だ 】
・営業には見込み違いがつき物である。間違いないと当てにしていた見込み客の注文が来月に延びる、もしくは流れる。それは悪い事ばかりでなく良い見込み違いも起こる。また営業の力量が低い人、考えや詰めの甘い人ほど見込み違いは大きくなる。このように営業は当初の見込みの当りはずれを繰り返しつつ、一ヶ月が過ぎていく。月初の見込みは絶えず変動する。そして月末の数字によって各自の売上が確定する。言うまでもないが数字は日がたつにつれて精度をあげてくる。
・10の部門では月初の見通しと確定数字とは大きく違った。月初、我々は希望を持ってスタートし、月末に糠喜びに終わる事を繰り返していた。つまり部門長達は大概楽観主義者だったのだ。
・一年経ち、二年経つうちに売上見通しの誤差が次第に小さくなっていた。落差の激しい部門には本部からチェックが入った。石も磨けば光った。こうして、我々は今月の売上を月初または月の半ばにはかなりの精度で予測できるようになった。月末にならなければ分らない売上が、月初に推測できるという事は経営を安定させてくれた。5日目毎に報告される売上週報(正確には5日報)のファックスは楽しみとなった。数字が良ければ積極策を取り、悪ければ引き締めた。
・そのファックスを見て、捨てる。データはファイルして保存するものではない。見て捨てる物なのだ。(この項続く)
第226回 『 意思決定と役員会 』 2
- 2007/04/20(金) 15:00:00
【 私の興味をひかないグラフや表 】
・良い経営をするにはしっかりしたデータを作り、問題を正しく認識し、判断決断に当たり経営の舵取りを誤らない事である。これが勘による経営に替わる現代の経営である。トップになって以来、私はそれを知ってもいたし感じてもいた。ただ、しっかりしたデータがどんなものかを知らなかったし、その作り方も知らなかった。昭和の終わり頃の当社のデータは会計事務所が作成する月次決算とそこに添付されるグラフや表であり、月次決算は未だにピンとこない。グラフや表は一目で理解できるが私の興味をひかなかった。
・そんな頃、大企業の役員を務める友人が、会社のデータを何種類か見せてくれた。それがどんな働きをするか分らなかったが、私に与えられたチャンスであった。私は同じような表やグラフを当社用に何種類か作って、データによる経営を試みてみた。
・あれは1年も続いたであろうか。結局私はギブアップした。今ならその原因は良く分る。データはすべて過去のものだった。前月までの実績、または前月までの10ヶ月の実績…。
【 単なるゴミ屋敷のオヤジですか 】
・先日、テレビでジャーナリストの鳥越俊太郎氏が「鳥越さんの欠点は」と問われて整理整頓ができない事と答えていた。「靴は一ヶ月3足買う。鞄も、それが捨てられないんです。部屋中がガラクタで埋まって。ヨーグルトのビンなんかも…」
「要するに単なるゴミ屋敷のオヤジですか」 「まさにその通り、寝るときはゴミの隙間を見つけて小さくなって寝るんです」 ははア、人には実に様々な癖があるんだ。ダンディな姿に似合わぬ癖に、私は呆れ感心する。
・私は物を捨てられる方だ。リビングにある6人掛けの食卓で私は仕事をしているが、油断すると卓上がごった返している。今年に入って意を決して、食卓の上を零にしている。またホテルのように本やセーターの類も部屋に一切置かないようにしたら、この上なくすっきりした。
・私の癖は文書のファイルや管理ができない事。やかましく言うので報告書やデータがどんどん上がって来る。それらを初めは分類整理していたが、ある日、嫌気が差してやめてしまった。以来、文書は新聞と同じで読み捨てを原則としていた。勿論、重要な書類は捨てないで仕舞い込む。しかし二度と目に触れる事はない。整理下手だが、探すことも下手らしい。現代の経営への挑戦が頓挫した理由の一つは、上の私の癖が一因であったかもしれない。整理下手なトップには現代の経営は出来ないという事だ。
【 羅針盤もなく荒海の闇夜を漂った 】
・さて平成の大恐慌である。我々は羅針盤もなく荒海の闇夜を漂っていた。売上は毎月ぐるぐる変わり、捉えどころがない。模造紙に折線グラフや棒グラフを書き、売上を管理したが役に立つとは思えなかった。間違うと船は波に呑みこまれてそれまでとなる。この時、私は心底から今月の売上を知りたいと思った。勿論、そんな願いは叶うはずもなかったが…。
・しかし私は何かあるはずだと考え続けた。今月の売上という近未来の数字を知っている人は、いない。しかしその数字や情報に近い人間は…? いるはずだ。としたら、それは誰だろう。トップの私か、いや。営業担当役員か、違う。営業の部門長達、そうではない。こうして私は札幌から福岡の営業所で働く120余名の営業担当にたどりついた。月初に、彼らはその月の自分の売上のおよその数字を漠とだが予測しているはずだ…。(この項続く)
第225回 『 意思決定と役員会 』
- 2007/04/10(火) 15:00:00
・平成の恐慌は平成3年に始まり、およそ10余年の長期にわたり日本列島に居座った。中小企業はもとより大企業も、バブル期の放漫経営のツケを徹底的に支払わされた。過剰な人員、過剰な生産設備、そして過剰な借入金…。加えて膨大な不良債権(もしくは資産)。恐慌の中、ツケの支払いの出来ない大小の会社が波に呑まれるように姿を消したが、大多数の会社が幸いにも生き延びた。そしてそれぞれの会社が、あの恐慌から貴重な何かをつかんだであろう。それを私の例でお話ししたい。
【 撤退と縮小の作戦 】
・平成3年から、当社の生き残り作戦は始まった。管理者養成学校ロサンゼルス校の閉鎖と撤退。贅沢に使っていた本社事務所ビルの解約と移転…。その他様々な決断を社長の私は専務に相談しながら進めていた。作戦は当初は撤退と縮小が中心であった。こうして3年、リンゴの皮を厚く剥くように売上が落ちていく…。それもようやく下げ止まり、低いながらも収支がバランスするようになった。
・あれは多分、平成6年頃だと思う。これまで撤退縮小を繰り返していたが縮小ばかりでは組織はもたない。その頃、私はビデオ事業への本格的な取り組みを検討していた。それを行うとなれば少なくない資金を投入しなくてはならない。成功すればいいが、失敗すれば会社が受けるダメージは小さくない。縮小路線では果敢に決断していた私も、この時ばかりは決断がつかなかった。
・そしてある日、私は取締役会を招集した。私を含む4人の常勤取締役と一人の非常勤取締役、そして一人の非常勤監査役、それは10数年振りの役員会であった。会議は月1回、11時半より、夕刻5時、または6時まで続いた。会議では新事業進出などの重要案件だけでなく、会社の売上の推移や存在する問題点などが熱心に話し合われた。
【 一人より二人が優り、二人より十人が優る 】
・会議が行われるようになって気がついたことがあった。人は何かを判断する場合、その良し悪しについて様々に考えをめぐらす。この考えるという作業は一人の頭脳の中で完結する事もあり、二人の対話によってチェックされ、五人、十人の討議によって鍛えられることもある。そして私の体験では多分、一人より二人が優り、二人より十人が優っている、…ように思う。もちろん参加するメンバーの資質にもよるが…。
・役員の中の二人の非常勤氏はそれぞれ会計事務所のトップであった。つまり遠慮のない発言が期待でき、二人もそのようにされた。後に大企業の取締役だった人が、非常勤役員として5年間、参加頂いた。この役員会があれから12年間続いている。そしてこの役員会が当社の意思決定の質の向上に貢献していると思う。
・非常勤役員は会社の実情をほとんど知らない。そこで案件によっては現在の仕組みやそれが作られた経緯、またその仕組みのプラス、マイナスを説明しなくてはならなかった。この事は面倒のようだが思わぬ利点があった。まず提案者は案件について現状や経緯をきちんとチェックせねばならず、これは常勤役員の認識の統一にも役立った。あるいは役員の説明能力を高めてくれた。
・月1回の会議では議論は白熱した。5時間のディスカッションが終わると皆フラフラになった。12年間、150回に及ぶこの積み重ねは大きかった。(この項続く)
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