第211回 『 健康を管理する 』 3
- 2006/10/31(火) 15:00:00
・60歳の一年は少し忘れ難い年となった。59歳の秋頃、空腹時にミゾ落ちのあたりがかすかにヒリッとした。12月のドックで医者に相談したら、胃カメラを呑んでみましょうと言われた。平成8年1月、三度目位の胃カメラを呑み、それは過酷な20数分となった。普通は10分のはずだ。ベッドの上で私は映像から目をそらしていた。視線の先に看護師が心配そうに映像に見入っていた。腫瘍が見つかり、担当医が採取していた。
・何日か経って悪性か良性かの結果を聞きにドックに行った。担当医は机の上のメモに癌と書いて私に渡した。口では言い難かったのだろう。思い当たる事はいくつかあった。何よりも癌年齢であり、一年前に妻と別居しストレスが強かった。
・担当医は作業を進めた。病院と医師を決める…。担当医は三つの病院と医師を示し、その中の一つを薦めた。医師は咽頭癌の専門医で、私の癌は胃の噴門部にあり、医師の専門性が活かせるという。その病院は他の二つより私の住居から近かった。結局、私は担当医の薦めに従い、2月のある日、受診に出かけた。
【 小説 「取引停止」 】
・その5年前、私は母を亡くしていた。最期を看取り、通夜と葬儀…。暇な時間を見つけて私はコツコツと原稿を書いていた。原稿はその年の末、小説「取引停止」 (日経事業出版社) として出版された。私の処女作であり、恥ずかしいが未だに処女のままだ。折からの不況に題名が悪すぎた。つまり…売れなかった。その小説の冒頭は次の文章で始まる。
「暖かい日差しがあふれ、のどかな一日になりそうだ。国道を右に折れると、道は小高い丘に向かった坂道となる。丘の上には、外科病院のビルがあり、折しも一台のBMWが坂を登りつつあった。舗道では一羽のカラスが、腰を浮かせてさんざん迷ったあげく車の通り過ぎるのを見送った。車は坂を登りきると外科病院のゲートを入っていった。」
・新宿と小田原を結ぶ小田急線の厚木の先に、伊勢原という駅がある。「東海大学病院」と告げるとタクシーの運転手は心得て走り出した。車は国道246号線に出た。やがて左手に小高い丘が連なり、それらしき病棟が見えてきた。タクシーは梨畑を左に折れ、小川を渡るとあの小説と同じ光景が広がっていた。
・入院は4ヵ月後の6月初旬となった。会社の経営で手が離せなかったのだ。ドックによってせっかく早期に発見できたのに…。執刀医には叱られた。週刊誌の名医情報で度々その名を見かける人の言葉は重かった。10日程の検査の後、胃の全摘出手術が行われた。身体中に管が差し込まれた数日をベッドで過ごした後、主治医はなるべく身体を動かすようにと言った。私はリンゲル液のぶら下がった滑車をガラガラ引いて、病院中を歩きまわった。
【 青鷺が水中の小魚を狙っていた 】
・そんな時、同僚経営者が見舞いに来た。彼は見舞いにウォークマンを呉れたが、管アレルギーの私には手が出なかった。リンゲル液から解放されると、暑い中を外に出て歩きまわった。例の坂を降りると小川がある。川を遡ると水の中に、青鷺が身じろぎもせず水中の小魚を狙っていた。
・ある日、外に居ると病棟からガウンを着た長身の男が、医師と二人の看護士を従えてポーチに出てきた。そこでガウン氏は医師に挨拶し、二人の看護士から花束を受け取ると、黒塗りのハイヤーに乗って退院していった。こんなに自分を大切にして、この先やっていけるのだろうか…。
・こうして外科病棟で60歳となり、7月初旬に退院した。それは奇しくも小説の主人公、柏木仙蔵の入院期間と同じであった。この日一人で荷造りをし、勘定を済ませると、10階のナースステーションの看護士たちに挨拶をした。10数人の女性たちは、全員が独身ということだった。大きな荷物を二つ抱えて病院前のタクシーに乗り、伊勢原からは電車で帰ってきた。本厚木で急行に乗り換えたが、席が一つだけ空いていた。
・見舞い客はウォークマン氏一人だけだった。病気も入院も誰にも明かさなかった。見舞いの心配をかけたくなかったし、見舞いの言葉を受け病状を説明するのも気が進まなかったからだ。(この項続く)
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