第187回 『 生涯の財 』 6
- 2005/11/22(火) 15:00:00
・前号まで、学校教育は十数年の長期にわたるが、受けた教育が社会でほとんど役に立たないこと。下手な知識の詰込みより、万人に役立つ学習テーマを教えるべきであること。例えば「話す」「聞く」「読む」「数える」「書く」の5能力は、社会では50年のビジネス人生を戦う武器として大いに役に立つが、なぜか学校では教えられないこと。…以上のことを述べてきた。
・ここであらためて疑問が湧く。学校はなぜ5能力を教えないのだろうか。学校教育者はこれらの重要性を知らないのか。知っていてやらないのか。後者とすれば、その理由は…。
【 学校はなぜ5能力を教えないか 】
・そもそも教師とは話すことによって、人に何かを教える職業である。難しいことは分かり易く、物事の仕組みはつまびらかに話せる、…そういう教師はいるだろうか。 …いるが、少数である。
・日本人の言語能力の低さは良く知られ、教師も例外ではない。それは良いとして、話下手の教師がいつまでも通用して良いのだろうか。もちろん、良いはずはない。しかし、このような教師が姿を消す気配は今のところない。そういう取り組みが無いからだ。
【 難しい能力教育 】
・考えてみると塾や予備校の教師は学校教師と少し違う。話し下手では塾生を失うので、彼らは話し方の改善に真剣であり、現に改善している。この点、特に公立校の教師は身分が守られていて、話し方が改善されることが少ない。
・教師が話し下手であれば生徒に手本は示せないし、教えられない。話し上手な教師は3割ぐらいはいるだろう。彼らは良いモデルを示す事は出来るが、生徒の話す能力を高めるには別のノーハウが必要になり、話し上手だけでは教育できない。すなわち能力を高める事を目的とする教育は自ら能力を得、生徒の能力を高めるノーハウを習得せねばならない。つまり能力教育は難しいテーマなのだ。話す能力だけでなく、話を聞く、本を読ませる、数学を応用する、文章を書く能力すべてが…。
・従って学校は難しい能力教育を避けた。「話す」は教えないことにしたのである、明治の始めの頃に。当時、義務教育はわずか4年であった。従って能力を教育しないという選択は正しかった。問題はそれが実に百数十年間も続いてしまった事だ。今日、高校卒の専門学校を含む大学進学率は…実に76%にのぼる。学校教育は今や4年から14年へ3倍強も増えている。これだけの期間があれば何でも出来る。では学校は万人に役立つ能力教育を取り入れたか。彼らは大昔のやり方を何ひとつ変えなかったのだ。何という怠慢!!
【 落ちこぼれが増え、塾が増え 】
・ではこの間、学校はあり余る時間を何に使って来たか。学校は教育期間が2倍になると、教える知識も2倍に、3倍になると3倍にしてしまった。こうして知識の内容はどんどんハイレベルにしていった。知識なら教師は何とか教えられるというわけだ。その傍ら、落ちこぼれが増え、町に塾が増え続けた。
・次にどんな教師でも生徒の評価が簡単に出来るよう、知識は輪切りにしてテストされた。文章力のテストは消え、正誤100点満点式となった。公平といえば公平だが、ただそれだけだ。例えば、小中学校の授業では漢字の書き順を教えてテストする。私は問題集の正解を見たが、それは私の想像を超えた。つまり50数年前の学校では、書き順はあまり教えられなかったのだ。私は物書きの端くれだが、書き順を知らなくてもやって来れた。社会で書き順が役に立つのは学校の教師くらいだろう。万人に役立つ教育に程遠い…。
・昭和40年代初めに、受験校の難易度を示す「偏差値」を導入。これで教師は簡単に生徒の志望校を決めることが出来、知識教育に拍車がかかった。
・これで教師は安楽だが、生徒は不幸だった。高度な知識を押し付けられ、しかもそれを話し下手な教師が教えるというのだから。(この項、続く)
第186回 『 生涯の財 』 5
- 2005/11/08(火) 15:00:00
・前号までに、話す、聞く、読む、数える能力が社会でいかに役に立つかを述べて来た。しかも学校ではまともに教えられていない…。そういう大事な能力はまだある。それは江戸時代の寺子屋で教えられていた、いわゆる「読み・書き・算盤」 の 「書く」 能力である。
・書く能力は主として、漢字を正しく書く、正しい書き順で書く、きれいに書く、良い文章を書く、以上4つである。
【 学校で教えられる書く能力 】
・学校では書く能力は重要な学習テーマである。小学校では、教師は漢字の書き方、読み方、送り仮名、意味、使い方を熱心に指導し、テストにより入念にチェックする。習字の時間では正しい書き順とともに、きれいに書く練習をする。中学、高校になると、読む能力である読解や古典の学習に代わる。
・漢字、書き順、きれいに、の3つの書く能力について学校は確かに力を入れている。パソコン時代の今日、その効用には少し疑問が残るが…。反面、文章を書く教育が極めておざなりだ。まず作文の時間が少なく、教師は提出された作文に短くコメントを書く程度である。大体良い文章の書き方のガイダンスがない。しかも作文能力は殆んど国語の評価の対象になっていない。
・漢字、書き順、きれいに書く事も大事だ。しかし良い文章を書く能力には遠く及ばない。文章を書ける人は自然に文章を書く機会が増える。そうなれば漢字、書き順、きれいについても関心が高くなる。つまり重点が逆なのだ。
【 ビジネスと書く能力 】
・ビジネスの現場では、様々な文書が飛び交っている。企画書や報告書からメモに至るまで、ビジネスマンは日に何度となく文書のやり取りをしている。電話で何かを伝えようとすると、話し手にも聞き手にもミスが生じやすい。相手が居なければ仕事が残ってしまう。その点、書いてファックスすれば証拠が残り、正確さが増す。また、その情報の受け手は二人や三人はいるはずだ。三人に電話するより、この方がずっと素早い。ただし、その文章が分かりやすく書かれている場合にのみ、正確な伝達手段として成り立つ。
・文章に自信がないビジネスマンは、文書を作成する仕事を避けて口頭で済ませようとする。彼は必然的にミスが多く、情報の発信量が少なくなる。また、重要な仕事はこのような人には任されない。実際、文章を書けない人が驚くほど沢山いる。このような人は組織で頭角を表す事はない。
【 書く事は考える事 】
・人は自分の考えを相手に伝えるには書くか話すかしかない。話して伝えた考えはそのまま忘れられる。書いて伝えた事も同じような運命を辿る。但しテーマが重要であれば、書いた方が形として残るためその後活かされる可能性が高い。例えば数行の走り書きされたメモは、そのままではレベルが低く隙だらけであろう。しかし、表から裏から考察し、加筆を続けるなら有力な新製品の企画書になり、あるいは新割引制度となるだろう。
・どんなに優れた発想も、初めはちっぽけな数行のメモから始まる。書かれたものは自らを客観的に見る事ができる。細部を注意深く点検すれば、ほころびは幾つも見つかる。その一つ一つを補強していけば、内容は膨らみ、どんどん良くなってくる。書くという事は考える事である。考えるという事は、多くの場合書く作業を伴っている。書いて直す、…仕事とはそのようなものだと心得て頂きたい。(この項、続く)
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