第169回 『 指導者への道 』 5
- 2005/03/08(火) 15:00:00
・一般に学校や家庭の倫理は正義であり清潔を求めるのに対し、実社会のそれはどろどろとして時に汚い。例えば金というものは、家庭の倫理観では軽視されるが、実社会では価値基準の中心にある。前者の倫理観はかくあるべしという理想に基づいているのに対し、後者の倫理は現実に基づくためである。
・若い人が社会に出る時、自分もいよいよ清浄な世界から汚れた世界に入っていくと心の片隅で感じている。そして実社会でそのような現実にぶつかることになる。この社会の現実にすばやく適応する人があり、時間をかけて少しずつ適応する人があり、最後まで馴染めない者もいる。では実社会の倫理は人が言うほど汚いものだろうか。
・実社会は少なくとも生きる糧を得る為の行動の場であり、憩いリフレッシュする家庭とは倫理が違う。人々は実社会の倫理に汚名をかぶせる傾向があり、家庭や若者の倫理が美化される傾向もある。この為、若者は実社会の倫理の学習に遅れをとり、あるいは社会への適応の仕方を誤ってしまう。そのような例を挙げよう。
【 責任を持たされ、取らされる 】
・たとえば出世である。会社では係長、課長、部長。専務、社長への階段がある。出世という言葉に人は微妙な感想を持つ。あからさまにはしないが、人は誰でも本音では出世を望んでいる。しかしそれが困難な道であることを知っている。人の上に立つには相応の実力が無くてはならない。嫌な苦労が数多くある。責任を持たされ、責任を取らされる。仲間同志の足の引っぱり合い、あるいは上司へのゴマスリもある…。
・出世をこのように考えるのは悪い事ではない。なぜなら出世とは一部の人のものでしかないし、これに不道徳のイメージを与えることは社会の知恵でもある。ただし出世がそういうものかとなると事実は違う。確かに同僚の足の引っぱり合いもあろうし、上司にゴマをすって出世する者もいる。しかしそういうことばかりではない。なぜなら今日のビジネスの環境は昔よりはるかに厳しく、ゴマをすって地位を得てもなまじな力ではその地位を保てない。一方、企業の経営者は食うか食われるかの戦いをしている。そういう人は部下のゴマスリを見抜けないほど愚かではない。また力のない者を責任ある地位につけて、苦労の種を背負い込むことは避けたいはずだ。
【 世に人材は少ない 】
・ご注意願いたいのは優れて出世していく人は時にゴマスリに見えることも、ゴマスリそのものであることもある。その代表は豊臣秀吉であろう。当時の織田家中では、秀吉はたぶん鼻つまみ者であったに違いない。しかし、彼は野戦にあっては有能な指揮官であり、城を攻めさせても優れた軍略家であった。彼のゴマスリが非難されないのは、秀吉のこのような実力の背景が豊かすぎる故であろう。もっとも信長のような天才戦略家への賞賛が過大になるはずはなかったであろう。
・出世とは少なくともここでの意味は次の通りだ。組織は優れた指導者を求めている。組織に限らず社会もまた同じである。それは現代だけでなく、昔から常に人材は求められてきた。そして常にだが、世に人材は少ないのである。
・歴史を振り返ると、人材に対する要求の度合は時代によって異なっている。たとえば人材を求めることが最も少なかった時代は江戸時代であり、最も強かった時代は信長、秀吉の活躍した戦国時代と幕末及び明治時代である。大正、昭和は人材の求めは比較的少なく、戦後の経済の大発展と共に人材の要請が再び強まってきた。
・先にトップは部下のゴマスリを見抜けないほど愚かでないと述べた。ではトップの人材抜擢に問題は無いか。いや、大いにある。その最大のものは年功序列である。多くのトップは年功によってリーダーを登用し、失敗を重ねている。しかしトップはそのやり方を変えようとしない。年功によらないとしたら実力によって登用するのだが、肝心の実力が社員の中に見えてこないのである。平和な村の住民たちは互いに仲良しになれても、自らのリーダーシップを磨くことを忘れている。(この項続く)
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