第170回 『 指導者への道 』 6
- 2005/03/22(火) 15:00:00
・20代で会社に入って来る新人たちは、出世をどのように感じているか…。目の前にずらり居並ぶ部長や課長が、それぞれの個性で仕事をこなしているのを見ると、仕事を覚えるのに汲々としている身に出世など高嶺の花でしかない。しかし心のどこかで密かに出世を願ってはいる。しかも強く…。はたして管理者に成長していく芽が自分の中にもあるのか、それはどんな姿をしているのか。どこかでこの様な疑問を抱えている。
・しかし、人は自分が望むものが手に入りにくいと知ると、素直にはなれない。出世は実力によるものではなく、ゴマスリの故として非難する。 そういう卑屈な行為をしてまで出世したくないと強がるかもしれない。
【 リーダーシップに様々な欠陥 】
・5年、10年が経ち、仕事も覚える30代にもなれば、会社の色々なことが分かってくる。まずトップ、特に上司や管理者たち。かって高い存在に思えた人達が思いのほかに意識が低く、部下のやる気を削いでいる。リーダーシップに様々な欠陥があり、部下を有効に活用していないし育てることもできていない。
・しかし、彼らにもいよいよ出世は他人事ではなくなってくる。一年二年の先輩が主任や係長に選ばれ、部下を一人付けられる。同期生も管理者の入口に足を踏み入れる者も出始める。この頃には出世に対する彼らの考えは微妙に変化している。「あの程度でいいのなら、課長や部長ぐらいこの自分にも勤まる…。」 自分の身近の管理者を見てそう思う…。 そして、人並みに出世したいという願いが切実になる。
【 あの程度でいいのなら、この自分にも 】
・彼のこの判断または認識は、一面で正しく一面で誤っている。あの程度という管理者に対する判断は総合的には正しいが、それは彼が管理者の能力を評価する力を持っているからではない。これができるには管理に関するかなりの知識と、そのための学習を必要とする。そういう学習をしたと、彼は述べていない。とすると、彼は社員の目で上司を評価したのだろう。ところが管理者と部下では立場が違う。管理者の取るべき道は往々にして部下の見方とは対立する。すなわち、彼は上司のリーダーとしての長所をマイナスとし、欠点をプラスと評価したであろう。
・彼の誤りは 「課長や部長ぐらいこの自分にも勤まる…。」 としたことにある。日本は年功序列だから、彼が管理者に登用される日が来るかもしれない。外から見るとたやすく見えても、いざ課長として5人の部下に対すると状況は一変する。仕事には目標があるがそれらはたいてい達成されていない。達成させるためには部下のやり方を変えねばならない。それができるか。毎日が部下の抵抗との闘いが続く。そんな生活に耐えられるだろうか。もちろん、耐えられない。そこで部下に抵抗されそうなことはもう何も言わなくなる。その姿は、彼があの程度と低く評価した身近の部課長にすら、はるかに及ばないであろう。
・では、管理者に必要な能力とは一体どのようなものか。一口で言えば人の上に立つのに必要な能力でありそれは無数にある。それらをいつどの様にして身に付ければよいか。まず管理者としての能力は、学習と経験によって掴み取るのが王道でありそれ以外に道はない。では、学習と経験はいつから始めるのが良いか。学ぶべきものは無数にあり、故に管理者になってからでは少し遅い。リーダーへの道を志した時、早ければ早いほどよく、遅くとも20代の後半には始めたい。(この項、続く)
第169回 『 指導者への道 』 5
- 2005/03/08(火) 15:00:00
・一般に学校や家庭の倫理は正義であり清潔を求めるのに対し、実社会のそれはどろどろとして時に汚い。例えば金というものは、家庭の倫理観では軽視されるが、実社会では価値基準の中心にある。前者の倫理観はかくあるべしという理想に基づいているのに対し、後者の倫理は現実に基づくためである。
・若い人が社会に出る時、自分もいよいよ清浄な世界から汚れた世界に入っていくと心の片隅で感じている。そして実社会でそのような現実にぶつかることになる。この社会の現実にすばやく適応する人があり、時間をかけて少しずつ適応する人があり、最後まで馴染めない者もいる。では実社会の倫理は人が言うほど汚いものだろうか。
・実社会は少なくとも生きる糧を得る為の行動の場であり、憩いリフレッシュする家庭とは倫理が違う。人々は実社会の倫理に汚名をかぶせる傾向があり、家庭や若者の倫理が美化される傾向もある。この為、若者は実社会の倫理の学習に遅れをとり、あるいは社会への適応の仕方を誤ってしまう。そのような例を挙げよう。
【 責任を持たされ、取らされる 】
・たとえば出世である。会社では係長、課長、部長。専務、社長への階段がある。出世という言葉に人は微妙な感想を持つ。あからさまにはしないが、人は誰でも本音では出世を望んでいる。しかしそれが困難な道であることを知っている。人の上に立つには相応の実力が無くてはならない。嫌な苦労が数多くある。責任を持たされ、責任を取らされる。仲間同志の足の引っぱり合い、あるいは上司へのゴマスリもある…。
・出世をこのように考えるのは悪い事ではない。なぜなら出世とは一部の人のものでしかないし、これに不道徳のイメージを与えることは社会の知恵でもある。ただし出世がそういうものかとなると事実は違う。確かに同僚の足の引っぱり合いもあろうし、上司にゴマをすって出世する者もいる。しかしそういうことばかりではない。なぜなら今日のビジネスの環境は昔よりはるかに厳しく、ゴマをすって地位を得てもなまじな力ではその地位を保てない。一方、企業の経営者は食うか食われるかの戦いをしている。そういう人は部下のゴマスリを見抜けないほど愚かではない。また力のない者を責任ある地位につけて、苦労の種を背負い込むことは避けたいはずだ。
【 世に人材は少ない 】
・ご注意願いたいのは優れて出世していく人は時にゴマスリに見えることも、ゴマスリそのものであることもある。その代表は豊臣秀吉であろう。当時の織田家中では、秀吉はたぶん鼻つまみ者であったに違いない。しかし、彼は野戦にあっては有能な指揮官であり、城を攻めさせても優れた軍略家であった。彼のゴマスリが非難されないのは、秀吉のこのような実力の背景が豊かすぎる故であろう。もっとも信長のような天才戦略家への賞賛が過大になるはずはなかったであろう。
・出世とは少なくともここでの意味は次の通りだ。組織は優れた指導者を求めている。組織に限らず社会もまた同じである。それは現代だけでなく、昔から常に人材は求められてきた。そして常にだが、世に人材は少ないのである。
・歴史を振り返ると、人材に対する要求の度合は時代によって異なっている。たとえば人材を求めることが最も少なかった時代は江戸時代であり、最も強かった時代は信長、秀吉の活躍した戦国時代と幕末及び明治時代である。大正、昭和は人材の求めは比較的少なく、戦後の経済の大発展と共に人材の要請が再び強まってきた。
・先にトップは部下のゴマスリを見抜けないほど愚かでないと述べた。ではトップの人材抜擢に問題は無いか。いや、大いにある。その最大のものは年功序列である。多くのトップは年功によってリーダーを登用し、失敗を重ねている。しかしトップはそのやり方を変えようとしない。年功によらないとしたら実力によって登用するのだが、肝心の実力が社員の中に見えてこないのである。平和な村の住民たちは互いに仲良しになれても、自らのリーダーシップを磨くことを忘れている。(この項続く)
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