第150回 『 平成2年のバブル年不況 』 4

  • 2004/07/27(火) 15:00:00

・平成2年、土地の異常な高騰が東京で止み、やがて地方に飛び火する。同時に東京の土地の値が下り始める。バブル崩壊、不況の始まりである。平成4年12月、当社は社員 100名の原宿本社ビルをいち早く解約し、半数を新宿分室に押し込め、半数は渋谷の貸しビルに小さく分散させた。早すぎたか…。しかし不況は長期化し大型化し、この措置が危機から会社を救う一手となった。トップとして自信を持った。徹底対策、即断即決(経験則3、4)の教訓が生きたのだ。

【 川に落ちて流される悔しさ 】
・平成2年の不況は、当社は素早い対策で脱出した。売上の低下は止まり、やがて反転…。大型不況は連続しない(経験則5)。今後、15年は安全なのだ。平成5年、私は当社の安全を確認し、二つの選択肢で意思決定をした。営業改革を先送りしビデオ製作を優先する…。この決定は失策ではない。ただし時代が変わっていた。すでに右肩上がりの時代でなく、連続して大型不況が襲う時代に…。
・組織に弱点を残す企業に、連続する大型不況はひとたまりもない。当社が負った痛手は小さくなく、経営は再び危機に陥った。病気は、なおしておくべきだった。コンサルタント会社として範を示すべきなのに、川に落ちて流された悔しさは忘れない。平成9年より14年までの遅ればせの営業改革は、真剣勝負であった…。

【 結果管理と経過管理 】
・営業の改革で私は結果管理から経過管理への移行を進めた。営業目標をメンバーに割り振り、各人自由に営業方法を採用し、結果に責任を持たせる結果管理。自己主張する個性ある欧米人に適した方法である。
・呼び名は仰々しいが、日本の会社は多くこの方法を採っている。ただしコミッション制、報奨制は欧米のように厳格に適用されない。この為、効果には疑問が残る。
・経過管理では営業マンの電話アポイント、面談、見込客などに数字を定め、これを責任をもって実行してもらう。売上より日常行動を細かくチェックする方が、最終数字の信頼性は高まる。

・当社の営業も結果主義であった。営業マン達は上の指図を受けずに自由に行動したがる。上はまた、営業を指導する確かな方法論を持たない。なまじの方法論ではトラブルが頻発する。部門長達にもこの方が管理としてラクであった。
・営業マン一人一人を経過管理に切り替えるのに私は難儀した。トップの指示に誰一人反対しなかったが、誰一人やらなかった。30年続いた習慣は一朝一夕では変わらない。しかし諦めなかった。その理由である…。

・営業という仕事は苦痛を伴う。お客に会うことに苦労する。窓口の受付で門前払いに遭うことも度々となる。そこで作戦変更…。電話アポ作戦に切り替えよう。すると1件のアポイントに50本以上の電話を掛け、一日二件の面談がおぼつかない。面談ができて商品説明をしても、契約には結びつかない。思うように行かず、一日が空転する。すると方針はまた変わり、方針が自分にもはっきりしなくなる。転がる石に苔は生さない。

・彼らの仕事の大半は事務所の外で行われている。仕事振りを誰にも見られていない日常は、気楽であるが怖い事でもある。無から有を叩き出すのはたやすくない。この為にはしっかり自己管理しておく必要がある。誰にも見られなければ、行動が崩れる危険が常にある。このため営業社員が育たない。

第149回 『 平成2年のバブル年不況 』 3

  • 2004/07/20(火) 15:10:00

・企業のトップは目まぐるしく流れる業務の中から、組織を蝕む危険因子を拾い上げる。彼は必要なチェックや処理を施して、求める価値を創っている。トップが危険因子を拾いあげるには仕分け機が必要となる。ただしトップの企業活動は多種多様、あらゆる面に及ぶため、単純な仕分け機では役に立たない。とするなら、トップが現に使っている仕分け機はどのようなものか。

【 数千社の規模で倒産に導く不況 】
・その答えは概念である。概念…? そう。仕事場で使われる言葉に対し、彼が抱いている考え方や、価値観、つまり概念に依存している。たとえば品質、クレーム、不況など数百の言葉がトップに関係する。その言葉一つ一つにトップは濃淡さまざまな概念を抱き、それらはトップにより異なっている。若いトップの未熟なものもあり、間違ったものもある。中には一人よがりの傲慢な概念があり、経験に裏打ちされた老練な概念もある。

・トップは自らの概念に従って、時に笛を鳴らして試合を止め、チェックと指示を与える。あるいは笛を鳴らすのをためらったり…。そして結果の責任はトップが一人で負っている。その概念が貧弱なら経営も貧弱に。概念がしたたかなら、経営もしたたかに…。

・不況についてである。トップは誰でも不況に一般概念を持っている。不況は一定期間、居据わって人、物、金の流れを停滞させる。これにより放漫経営の会社や、健全でも対処を誤る企業を数千社の規模で倒産に導く。(経験則1)。トップにとって最も怖いものは倒産だから、不況の予測と不況対策は重要である。トップはいち早く不況を予測し、不況になれば正しく対処し、企業を安全に運営する…。 常に不況に備えるならさらに良し。

【 昭和の不況は小型で、少ない 】
・不況には大小の差があって(経験則2)、定期的に来る(経験則3)と感じるのが一般的だろう。それらは昭和期に経験則として身に付けたものだ。しかし先号で見たように、昭和不況はいずれも小型であったと修正する。また不況は定期的に来ると感じているが、昭和50年代に入ると不況の記憶が少なく、不況は少なかったと修正したい。

・しかし昭和期にも大型の不況があった。昭和48年のオイルショック不況がそれだ。日本経済に残した傷も、当時としては小さくない。この時、当社は事業所の半分を閉鎖して対処した。危機に際して、見栄や外聞を捨てなくてはいけないと考えた。対策を打つタイミングが遅れ、会社を危険にさらすのは得策でない。当社は徹底した対策と素速い決断で無用の危機を避けることができた。…と、思った。この不況を生き抜いた経験から、私は二つの教訓を得た。徹底対策、素速く決断。(経験則4)。

・この深刻な不況を生き延びて私はホッとした。これで大型不況は10年、20年は来ないだろうと思った。事実、それから15年間、大型不況は来なかった。大型不況は連続しない。(経験則5)。

【 大型不況が連続した 】
・平成2年、日本は久しぶりに不況に襲われる。しかも大型、バブル景気の揺り戻しもあって超の字のつく大型となった。企業がバタバタと倒産していった。多くの企業が昭和に経験した過去の教訓を引っぱり出し、対処した。平成一番の大型不況を、それでも多くの企業が生きのびた。

・企業がホッと胸をなで下ろした矢先、再び不況が来る。平成9年だ。それはいい。しかし、一年たって不況は金融不安となり、いっぺんに深刻化した。更にデフレスパイラルにより、不況は長期化した。大不況が二度続いた。平成になり不況の神話が覆される。これはどういう事であろうか。大震災は矢継ぎ早に襲い来るものではなかったはずなのに…。

第148回 『 平成2年のバブル年不況 』 2

  • 2004/07/13(火) 15:50:00

【 戦後の不況の性質 】
・今思うと敗戦の昭和20年から昭和64年まで、昭和における経済不況は小型で、短期に終わった。 昭和46年のニクソンショック、昭和48年のオイルショック以後は、不況の記憶らしきものが薄い…。 当時は深刻に報道され、我々もそのように受止めていたはずだが。

・お気づきだろうか。平成になると不況は大型化し、長期化した。なぜなのか…。苦しい中で振り返ると、昭和の不況が小型で短期あったことに気がつく。これはどういう事なのか。 右肩上がりの経済成長が続く昭和の時代には、不況は厳しさのない景気循環であった。

【 いつの間にか近付き、ひっそり交替 】
・では、平成という時代で、不況は何故深刻化したか。それは、時代が変化したことを物語っている。時代の変化は、時の政府の官房長官がテレビに登場し、国民に向かって時代が変わりましたと巻物をぶら下げるわけではない。 それはいつの間にか近付き、大抵ひっそりと交替する。 変化を事前に予知する人はいるし、その進行に耳をすましている人もいる。 しかし、大抵の人は10年以上もたってから気がつくのだ。 …私も。
・1989年、ベルリンの壁の崩壊と共に東西冷戦が終結した。この結果、中国やロシアで経済の自由化が始まった。 10億を超える安い働き手が、手を挙げて我が市場に参入してきた。
・国内では、戦時経済体制といわれる官主導の経済体制が、日本の高度成長を支えていた、…と。エッ! 日本は立派な資本主義国だと我々は信じてきたが、本質は社会主義国であった。ゲッ! 官僚主義により、制度疲労を起こしていた。時代にあわない鎧兜は捨て、構造改革を進めなさい!

・折りしも起こったバブル不況は、案の定、長期化した。4年の後に回復するが、わずか3年であっさり不況に再突入する…。 それは平成9年に始まり14年一杯続いた。リストラ、失業率の5%超、中高年層の自殺の増加…。
・私は時代の変化、不況の変質に明確に気付くのが10年遅れた。 イ.ビデオ教材。ロ.訓練の改善。 ハ.営業の強化という選択肢を前に判断を誤り、会社は5年の歳月を空費した…。

【 営業部門に七難あり 】
・営業部門に欠陥がある企業は、きまって経営の体質が弱い。営業が弱いと売上が安定せず、経営は簡単に赤字に転落する。 もっとも企業の形態は様々であり、これは製造販売業に限られるが…。当社は営業に欠陥があった。
・創業以来、私は営業部門に立ち入ったことが無かった。それだけにここには問題が山積していた。 大掃除に取り組んだら、難解な長期戦になるだろう。苦労は見えていたが成功の見通しはない。それで先送りにした。悪いことに、ここに社員の半数以上が所属していた。 会社最大の部隊の問題山積は、本当はただ事ではない。私は営業の改革を優先するべきであった。
・ビデオ教材という新商品は魅力があった。ここに有力なライバル会社はなく、私のシナリオは十分に通用するだろう。 新しい顧客を開拓してくれるかもしれない。ここには前向きの夢があった。 ビデオ製作の現場には俳優、女優もいる。埃の中の大掃除に比べ華やかで甘美な香りが漂っていた。 せっかくバブル不況から立ち直ったのに。 平成4年からのビデオ製作の5年間は順序を誤った。

第147回 『 平成2年のバブル年不況 』 1

  • 2004/07/06(火) 15:40:00

【 お祭りはツケで行われ、厳しい取立てが 】
・昭和61年、東京など都市を中心とする地価が値上がりを始めた。値上がりは地価から株式、ゴルフ会員権にまで及び、日本列島が暴騰する…。バブルの発生である。しかし、このお祭りが実は「ツケ」で行われ、日本経済に後に厳しい取立てが待っていようとは、日本人の誰もが気がついていなかった。
・バブルは平成2年崩壊を始め、同時に、日本経済は不況に襲われた。この不況はこれまでの不況と違う特徴を3つ持っていた。第一に、日本でかつて経験したことの無い大型不況であった。すなわち、被害はこれまでの不況の比でなかった。第二に、不況はたっぷり4年以上の長期にわたって居座った。第三に、数千万人の個人を巻き込み、彼等が営々として築いた個人資産を破壊した。

【 今思うとこの判断が誤りであった 】
・平成6年、日本経済はようやく回復に向かう。売上を半分に減らしながらも、多くの企業が苦境を切り抜けて生還した。当社もこれによって救われたのである。
・生き延びた企業の経営トップは、大型の不況の凄さ、4年間の長期戦を振り返ったはずだ。トップはそれぞれ、ここから何を学んだか。教訓は多岐にわたったであろう。そしてこの不況を生き延びた経験は、以後何よりの財産となろう。 いずれにせよ数十年に一度の大不況は終わったのだ。

・この時私にはトップとしての業務の他に、イ.新商品ビデオ教材の制作、ロ.訓練の品質改善、 ハ.営業部門の体質強化という三つのプロジェクトがあった。この三つの選択肢から私はイ.を選んだ。 今思うとこの判断が誤りであった…。判断に従って平成4年より準備を始め、以後5年間にわたり6本のビデオ教材という新製品を完成販売していた。それぞれ採算に乗り、年商4億、5億の貢献を果たしたが…。

【 企業は小腰をかがめ、不況が過ぎるのを待つ 】
・平成9年の消費税5%への引き上げを皮切りに、日本経済は再び不況に見舞われた。…またか。我々は大型不況をたった今見送ったばかりなのだ。その傷がまだヅキヅキ痛んでるというのに。…まさか。長期で巨大な大型不況が、たて続けに襲うなどあり得ない事だった。それでも企業は小腰をかがめ、木々を揺らして不況が通り過ぎるのを待った。

・2つ目の不況が到来して一年がたち、ビジネスマンたちの顔色が変わった。長期信用銀行、日本債券銀行が行き詰り、山一證券、そごうが倒産した。銀行がゼネコンや流通業に貸し付けた資金が不動産に投資され、不良債権と化していた。 ここにもツケは残っていた。 不況は巨大銀行を含む金融不安の様相を呈していた。

・またしても会社は存続の危機に立たされた。悪い知らせが続いた。冷戦の終了が世界を変えた。日本の大企業は中国やアジアに工場を移転した。それが恐慌的デフレスパイラルとなった。超優良と信じられた日本の企業が構造上の欠陥を抱え競争力を失っていた。 高賃金、過剰人員、多額な借入金、過剰設備。
・平成第二の不況は大型化し長期化した。荒海に投げ出され当社はなすすべなく苦しんだ。 当社の売上は、平成7年に27.0億に回復していた。 第二の不況で年々売上を減らし平成14年は21.2億に落ちた。私のプライドは地に落ちた。お客様にモデルを示し、ご指導をしていく立場にありながら、その当社がもがき苦しんでいるとは…。

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