第134回 『 バブル崩壊と12年不況 』 7
- 2004/03/30(火) 15:00:00
・バブルがはじけた。富士山麓の山の中の三つの学校では、地獄の訓練、上級訓練をはじめ10数コースの訓練が整然と行われていた。東京のセミナー研修部門では10種のセミナーと20人の講師…だ。東京の一生懸命塾は教室数12箇所に及び、子供達がいた。他に一生懸命学校、管理者養成学校USA。 …社員はこの10年で200人が450人に増えた。
・…完全に伸び切った戦線。年商39億の事業が溶け落ちている。補給はほぼ断たれ、野戦の司令官として私は必要な指揮をこなした。本部の大きな賃貸ビルは早々に返却し、小さなビルに移り住んだ。会社の舵取りを誤ることなく、被害を最小限に押さえ得るか。敗軍をまとめて再編成し、持久戦に持ち込むか。営業の実戦隊を引きつれての肉弾戦がいよいよ始まるだろう。
【 この時、私は戦線を離脱した 】
・しかしこの時、私は戦線を離脱した。会社が置かれたこの窮地を、急いでビデオ教材を作り、この販売で突破しようと考え、これに賭けた。これなら少なくとも私の能力を生かすことができる。これまでの私は営業を直接指揮した経験がなく、これを成功に導く自信がなかった。平成4年1月頃か、私はビデオ教材のシナリオを執筆しはじめた。
・当社では私は研究開発という実務を受け持ち、ここに時間の大半を取られる。次に、広告も私が実務を受け持っている。学校の訓練、セミナーのリーディングの品質は私の管理下にある。つまり良いネーミングを持つ商品を開発し、上質のサービス (訓練) を創り上げる。そして良いカタログ等を添えて営業部門に受け渡す。そして一年前後の販促により、市場に導入する。私の任務はここまでで、後は営業に丸投げしていたのだ。実務を二つ担当する身にとって、ここまでやるのが限界であった。創業以来25年、私が一度も立ち入っていない部門には、たくさんの問題があったはずだ。
【 教育コンサルタント 柏木仙蔵シリーズ 】
・シナリオの執筆は神経を消耗する。室内の作業はストレスを発散できないので、近くの公園が仕事場になった。私の家 (杉並区) の近くに武蔵野の吉祥寺の湧水を水源とする善福寺川があった。神田川と並行して流れ、川の大きさと水量・水質は神田川を圧倒していた。川の両岸にはそれぞれ50メートルから数百メートルの幅の緑地がつらなる広大な公園であり、隠れた櫻の名所である。…そこで執筆に当たった。最初の果実は、平成4年11月に実った。「教育コンサルタント 柏木仙蔵シリーズ」 がそれだ。
・その会社では半年前、中堅ユーザーが取引を停止していた。そのことを、トップと営業担当常務、営業課長は知らされてない。 …なぜ? コンサルタント柏木仙蔵はある日工場に訪れ、関係者のベールが次々に剥がされる。資材課では何があったか…。 技術課では…。 製造課長は…。 営業課長は…。さりげない日常の職場のディテールの中に、4人の課長のエゴとなれあいと責任と無責任が見え、隠れ、柏木の追及はやがて問題の根の深さをえぐり、森川専務、谷村常務の責任に及ぶ…。全3巻90分。
・シナリオは多分、夏頃に完成したに違いない。シナリオが出来ると映像はすべてが一斉に動き出す。プロダクションが決まり、監督が決まり、配役が決められる。主役の柏木仙蔵に大和田伸也氏が決まった。共演は山西道弘、大林丈史、新井康弘など。大道具、小道具、ロケハンティングがあり、脚本の読み合わせも…。
・予算は限られていたはずだ。それでも2000万円前後はかかったと思う。やがて撮影が始まり、全3巻90分の管理者教育用ビデオ教材が完成した。
第133回 『 バブル崩壊と12年不況 』 6
- 2004/03/23(火) 15:00:00
・バブルは平成2年に発生し、崩壊と不況は平成15年まで14年間続いた。崩壊の第一波はひそかに始まり、想像を絶する破壊となった。地価は半減、株価は平成元年の高値38915円が平成7年20011円の安値をつける。その不況は平成5年の4ヵ年で終わり、平成7年8年は3.0%4.4%の成長となった。早くもバブルを脱出し、経済は再び成長を始めるかに見えた…。
・この時、橋本内閣は致命的なミスを犯す。平成9年4月の消費税増税、秋の社会保険料の負担増が景気の上昇ムードに水を差し、景気は再び下降を始めた。一方、銀行に発生した不良債権の処理を、この際一気に進めよという声があった。ところがこの案が先送りされる。銀行によって体力に差があり、債権処理が一気に進められない。地価は将来いずれ上がるから、その時一斉にやればいい。体力の弱い銀行に合わせてスピードを調整する、典型的護送船団方式であった。
【 官僚達の計算は皮肉で悲惨な結果となる 】
・これが、債権処理の絶好のチャンスを失わせた。あまりに安易な官僚達の計算が、皮肉で悲惨な結果となる。銀行はまず不良債権の処理を先送りし、悪いことに自らの体質の改善を先送りしていた。以後10年、上がると期待した地価は下がり続け、半値のものが3分の1、4分の1となっていった。日経ダウは平成7年12月20011円のものが、平成15年4月8000円を割った。これらにより何と銀行自らが、長年積み上げてきた巨大な資産を空洞化させていたのだ。
・平成10年、日本に金融危機が発生する。北海道拓殖銀行、山一證券、日債銀その他の経営破綻。この時ようやく銀行で、不良債権処理とリストラが本格的に進み始めたらしい。
・政府は国債を発行し、公共事業によって景気と企業を下支えする。次に、消費者の預金金利を零に導き、銀行を救済する…。 官僚たちは国民を犠牲にして、都合のいい対策をひねり出す。「これしか手がありませんな」「…ま、これでいくしかありません」 誰も責任を取ることなく、処理が進む…。
【 77年間に一度、人は裸にされる 】
・日本は昭和10年日中戦争を始める。戦争は米英を相手とする第二次大戦に拡大、15年戦争として昭和20年敗戦となる。この戦いで240万人の将兵と一部国民の生命を失った。都市は徹底的に焼失され、海外の660万の同胞が身一つで引き揚げてきた。また、政府が発行した膨大な戦時国債は150倍のインフレによって価値を失った。たとえば10万円国債が期日が来て10万円は受けとれても、100分の1の1000円の価値しかない…。 郵便貯金も銀行預金も一時預金封鎖されて引き出せない。この間に猛烈なインフレで金は価値を失っている。こうして政府は膨大な預金の支払いを事実上チャラにし、すべての国民はきれいに裸にされた。昭和20年は明治維新以後77年である。つまり77年間に一度、人はすべての資産を奪われるのだ。誰によって…?むろん、政府によって。
【 被害は資産家を直撃したが、弱者も襲った 】
・昭和20年から、バブルと大不況が終ったらしい平成15年までは、58年間である。先の大戦の時ほど徹底的ではないが、企業も個人も資産は全て無価値となった。被害は資産家を直撃したが、長期の不況が次に弱者も襲った。まずリストラが中高年層を襲い、若い人にはまともな職が極端に減った。中小企業は貸しはがしで、倒産、または資金繰りに苦しんだ。
・60年に一度、または80年に一度、企業や個人の持てる資産が零になるのだ。このことが良く分かった。しっかり統括をして、これを後世に伝えなければならない。先の大戦の災害は、無謀な戦争に導いた国家の破産が原因であった。今回のバブルと大不況の原因は何か。それが、未だはっきりしないのだ…。
【 小さなリュックを背負っていた 】
・この度の破綻は、私は60代の半ばを少し過ぎて終了した。やり直すには半端な年齢だが、やり直すしかないのだろう。
・私はもう一つの破綻も体験していた。昭和20年11月には660万の海外同胞の一人として、朝鮮から日本に引き揚げた。国民学校3年生で、母に手をひかれ、 …小さなリュックを背負っていた。
訂正
・『 バブル崩壊と12年不況 』 3号で、私は投機は悪いことではないと書きましたが、私の錯覚であり、投資と訂正します。
・私の意は、本業とは関連しない不動産等への投資の意です。お詫びします。
第132回 『 バブル崩壊と12年不況 』 5
- 2004/03/16(火) 15:30:00
・昭和の時代の最後の10年間が、今思うと日本が最も輝いた黄金期であった。インフレなく経済は成長を続け、日本の製造業はその評価を世界で高めた。日本の経営者は一流であり終身雇傭、年功序列の日本型経営は世界に研究され称賛された。政治家に対する不信感こそ強かったが、官僚は優秀性の故に信頼されていた。日本の銀行は世界の銀行のランキングの上位にずらり並んだ。完全雇傭で失業率は僅かに2%台であった。大企業は大学の新卒を競って採用し、他社に流れないよう海外に連れていって囲い込んだ。
【 大掛かりなドンデン返しが待ち受けていた 】
・やがてバブルが発生し、膨らんでいく。平成2年に待ち受けている大掛かりなドンデン返しなど、誰も予測できなかった。それに続く13年の長期不況、そして降りかかる災害を、誰が予測できたであろう。我々は浮かれて、踊っていた。注意も用心もしていなかった。不幸にも不動産や株式等の資産の異常な高騰、バブルがそれに輪をかけた。
・昭和の最後の10年間、日本は繁栄の配当を受け取りながら、内部に病根を育てていたと思う。企業もビジネスマンも、成功に比例して心に慢心が生まれるのはやむを得ない。トップは緊張感を失い、マネージメントは甘くなっていた。昭和54年の第二次オイルショックに対した時のようには、ビジネスマンは働かなくなっていた。
・企業はそれぞれ戦線を拡大し、経営の多角化に、海外展開に、腰が伸び切っていた。建設業者も不動産業者も、その他あらゆる企業や個人が、土地やマンションを腹一杯買い込んでいた。ここに銀行が巨額の資金を貸し込んでいた。そして狙いすましたようにバブルが破裂し、こぞって地獄に叩き込まれた。資産価値は半分になり、まさかの四分の一となった。建設業者は資金繰りに窮し、返済不能に陥った。土地は担保価値を大幅に割った。資金を貸した銀行の債権が回収不能となった。これが不良債権である。銀行は以後13年、不良債権の処理に苦しむことになる。会社を倒産させて不良債権を処理すれば、銀行は自己資本を失わねばならないのだ。
【 リンゴの皮を厚く剥いて果肉まで 】
・バブルは当社にとって何であったか。当社の売上は毎年低下し、半減に近いところまで下がった。リンゴの皮を厚く剥いて果肉まで剥かれる思いだった。同じ事が二度起こった。バブル直後と平成13年…。 当社は22年間、決算は連続黒字を続けていた。しかし、平成2年の決算は赤字となった。それ以降13期、当社は辛うじて赤字決算はまぬがれた。但し売上高利益はひねり出した1%または2%に過ぎず、かつての絞り込んだ5%、10%とは内容では比べものにならない。
【 海外展開の事業は真っ先に整理された 】
・バブルの崩壊は社会にとって何であったか。企業の倒産は平成2年の1年間約6000件が平成4年14000件になった。その負債総額は1千万円以上のものに限っても、平成2年の約1兆5千万円が6兆円を超えた。そして今は倒産件数は19000件である。
・多くの企業が売上を減らし、利益が減少、赤字化した。これに伴い企業は事業を縮小した。海外展開の事業は真っ先に整理された。全国展開の事業は打ち切られ、不良店舗は閉鎖された。そういえば管理者養成学校USAも閉鎖し、日本人担当者が引き揚げてきた。この事業に成功する可能性は1%もなかったのだ…。 やるなら、私がやるべきだったのだ。
・働き盛りのサラリーマンをリストラが襲った。終身雇傭は常識ではなくなった。如何に人を活かすかより、如何に抵抗なく会社を去ってもらうかが、人事担当者の腕の見せ所となった。「働いてもらうところがない」これは企業戦士には、死刑宣告と受け止められたようだ。
・自殺は社会問題化し、深刻になっていた。平成2年21000人が、平成14年32000人になった。家族の為のサラリーマンの保険金目当ての自殺は悲しい…。それでもリストラは止まない。止めれば企業そのものが存在できなくなる。
第131回 『 バブル崩壊と12年不況 』 4
- 2004/03/09(火) 15:00:00
・バブル期に、ハワイやニューヨーク、海外の不動産の買いに動いた金はいくらだったのか。昭和61年。この年の日本の長期資本の流出は1370億ドル、僅か一年間で実に22兆円に達した。これが海外バブルの実態である。一年前の60年は650億ドル、つまり半分である。驚くべきことに5年前の昭和55年は、僅か23億ドルの入超でしかない。つまり零だったのだ。
・波穏やかな静かな水面が突如100億ドル、200億ドルと盛り上がり、59年500億ドル、12兆円に達した。以後22兆円の大津波が昭和61年、62年、63年、平成に入っても続いたのだ…。 これが、海外資産の買いに向かった資金の数字である。ここには隠された部分があり実態は更に膨らむようだが、表向きの数字がこれだけあった。海外資産を買いあさった夥しい資金、この熱狂的資産投機も平成3年バタリ止まり、資金の流出は若干の逆入超、つまり零となったのだった。
【 22兆円に、平成4年に帰国命令が出る 】
・この凄い資金は、一斉に日本に引き上げられる。日本のバブルの崩壊による至上命令であった。
・昭和62年の海外に流出した22兆円に、平成4年に帰国命令が出るとする。海外資産は換金に時間がかかるので、売却に平均二年かかる、…とする。現金に替え、22兆円の半分が一年後の平成5年に帰国できたとする。この時、円は144円が108円に変動しているので、25%の為替の損失となる。
・残り11兆円は換金に3年…、平成7年、為替は1ドル80円までのぼりつめるが、90円で換金できたとして、38%の損失となる。トータルでは為替損で22兆円の32%、6.9兆が消えたはずだ…。
【 残り10.1兆円は戦死した 】
・また、資産に向けられた投資の損益はどうだったか。僅か6、7年間に100兆円を超える大金が資産の投資でニューヨークに、ハワイに押し寄せていた。そしてある日一斉に引いていったら、往きと帰りで叩かれたに違いない。買いで高値をつかまされ、売りで買い叩かれる…。 その投資損失はどう控え目に見ても20%は下らない。これに為替差損の32%を加えると46%となる。すると昭和62年の22兆円の円のうち日本に帰還できたのは54%であり、残り10.1兆円は戦死したのだった。 あの7年間の総額が100兆円とするなら、54兆円が帰還でき46兆円が失われた。
・前号で私は次のように述べた。そもそも昭和60年のプラザ合意により、日本円を高くするという先進5ヵ国の合意がある中、アメリカへの投資はきわめてリスキーであったはずだ。常識的には近寄るべきでなかった。案の定というべきか…。
・海外バブルの実態は上に述べた状態だった。海外に投資した人の中に個人投資家も少なくなかった。この人たちはプラザ合意も為替の知識もなかったであろう。しかしこの人たちで100兆円の投資はあり得ない。ここには大企業も中小企業も国内業者も国際業者も、みないたに違いない。あの時、ウカツにも常識を忘れ、結果的には常識に挑戦し、アッと言う間に恐ろしいシッペ返しを食らったのだった。為替の知識経験を持つ企業で、意思決定でなぜ常識が忘れられたのか。その総括はすまされたであろうか…。
第130回 『 バブル崩壊と12年不況 』 3
- 2004/03/02(火) 15:00:00
・当社は昭和60年頃、サンフランシスコ市に邸宅を購入した。英会話の合宿所として、夏休みなど中高生のお客が若干だがあった。価格は7000万円だっただろうか。ビジネスとしては赤字であったが、アメリカに英会話校を持っている事は、それなりに夢があった。しかし、ロスアンジェルスに管理者養成学校USA(KYG・USA)の開校により、サンフランシスコの英会話は中止となった。邸宅は売りに出し、そして買い値に近い値で売れたと思う。多分、平成3年頃であったろう…。
【 目的は中途半端だが投機だった 】
・昭和60年当時、日本の企業は絶頂期にあった。日本の工場はアメリカだけでなく世界に進出していた。工場だけでなく日本の資本がアメリカの不動産を買いあさった。昭和62年、ソニーはハリウッドの映画会社コロンビアを買収した。同じ頃、ロックフェラー・センターは三菱地所が購入した。当社のささやかな投資はこうしたムードの中で行われた。国内の不動産は値上がり激しく、人々は海外の不動産に目を付けた。ニューヨークやハワイなど、アメリカの不動産が次に値上がりするだろう。こうして数十兆もの金が日本からアメリカに流出し、そのうちの僅かなものが、当社の7000万円だった。目的は、まあ中途半端だが投機であった。
・今、私はそれがどのようなものだったか調べてみた。購入したのは昭和59年5月だから、 バブルの初期だった。 購入価格は30万ドル、 為替は1ドル230円、6970万円。売ったのは平成1年11月、為替は142円、価格は48万ドル、60%の値上りだった。昭和59年、7000万円を投入し、5年後の平成1年末、6300万円となって帰って来た。国内の不動産と違い、傷は小さかった。
【 そして投機は悪いことではない 】
・企業のトップは資産の管理も守備範囲とする。あの二件の国内物件と同じで、英会話学校を名目とする中途半端な投機が危険を大きくする。投機なら投機と割り切ってするべきだった。そして投機は悪いことではなく資産の目減りを防ぎ、増大を目指す正しい行為なのだ。従ってこれは隠されるべきではなく、また周囲をごまかして行うべきではなかった…。ただし、情報と知識を伴なわなくては、成功しないだけでなく損害を発生する。為替の知識すら、当時の私には欠けていた。
・その為替は平成7年には79円に上昇した。この年不動産を売れば、邸宅の損金は3500万に達したであろう。傷が小さかったのは単に偶然にすぎなかった。30万ドルで買って48万ドルに上昇していなければ、損は3740万に達していただろう。
・そもそも昭和60年のプラザ合意により、日本円を高くするという先進5ヵ国の合意がある中、アメリカへの投資はきわめてリスキーであったはずだ。常識的には近寄るべきでなかった。案の定というべきか、あの頃流出した数十兆の資本は、バブル崩壊で日本への帰国を命じられた。企業各社は為替によって大損失を出したはずだ。
・私のように純国内取引と違い、輸出入関連の企業には為替のノーハウを持っている。日頃、為替で苦労されている。こういう企業は賢い行動を取られたであろうか。もしも行動を誤ったとしたら、その理由は何か。例えば為替の読みの誤りであろうか。昭和60年、円は242円であった。これが79円に3倍になった。あの時、円高の予測値を持っていたか。80円は予測できなくとも半値の120円は予測したか…。



