第125回 『 匿名の葉書 』 8
- 2004/01/27(火) 15:00:00
・私が営業社員に与えた経過目標はKを8件、ノルマは 「K6件」 であった。昨年の売上目標未達成の二部門は、私のノルマを無視した。残り9部門は売上目標を達成し、当社の目標117%という輝かしい業績の原動力となった。年末、この9部門を調べたらノルマ 「K6」 を無視していた。学校の講師達は怖い顔でトップを拒絶し、営業の11人の部門長はこぞってトップを歓迎し、綺麗に無視した。全営業の実績は平均実に2.5件であった。
【 部門長は何をやっているのか 】
・部門長はK6の重要性を知っていた。いや、トップが重視している事を知っていた。その効能を自分が体験した訳ではない。またK6の効能について、特に真直面に研究したわけでもなかった…だろう。しかし、自分の任務として折にふれて部下に伝えていた。トップの方針に忠実だが、要するにその気がなかった… 、と思う。
・では部門長は何をやっているのか。彼らの行動を観察していて、少し分かった。部門長の一人は企画書について部下と時間をかけて話していた。そういう姿を何度も見た。また、別の部門長は部下達に 「皆、お客に同行して欲しい人はいないか、いれば行くぞ〜。それから企画書、書いて欲しい人はいるかナ。いればやるぞ〜。」 …と。
【 丁寧に教える人も、自分で覚えろと突き放す人も 】
・部門長たちは皆、営業の経験があり、そこそこの成績をあげていた。時期が来て部門長の話があり、他人よりも自分がましとたいていこれを受ける。営業の経験があり新人の指導ならできそうだ。人とうまくやれるから、部下もついて来るだろう。部門長の仕事は何人も見てきたし、テレビなどでコツは分かっている…、 つもりだ。
・部門長が直面する問題は、まず新人とベテランだ。新人の問題とは増員の申請、採用、初期育成、中期育成と、…仕上げ。ベテランにはマンネリがあり、中堅社員にスランプ問題がある。新人への部門長の指導の内容は、商品知識、説明、訪問、面接、セールストークと種々ある。それを丁寧に教える人もいるし、自分で覚えろと突き放す人もいる。
・部門長が大切にするのは一応は業績…。 しかし、それより人間関係と自分への評価、できれば部下に尊敬されたい… のだ。このためには部下の仕事を助けてやる事だ。それには三つの方程式があり、見込客を作る、企画書を作る指導、同行訪問をする、である。部門長たちは 『この作業』 に精を出していた。まず 『俺流』 があり、遠くのトップの割込み指示はあまり頭になかったのだろう。
【 効果のないやり方が、海草のように身にまといつく 】
・ところで彼らの行動はどこまで有効か。確かに彼らの三方程式はすぐれた選択である。新人にはその助言が、たいてい役に立つであろう。ところが、彼らは三方程式を専門に研究している訳ではない。専門家になれば良かったのだが…。したがってその効果はたちまち行詰まる。つまり部門長の指示を受け、同行してもらってもなかなか決まらない…。
・営業マンは焦る。部門長の指示に疑問を持ち、自分で勉強を始める。すると魅力のある対策が20も並べられる。彼は良さそうな対策を選び 『俺流』 が始まる。効果のある対策は何かというと、続けることに 『苦痛が伴う』 事であろう。試行錯誤の中から彼が選ぶ対策は。苦痛がなく効果もないやり方が、海草のように身にまといついているのかも…。
・時代が厳しくなり、私も穴ぐらから出て30年振りに営業の前線に放り出された。冬の時代の業績悪化は待ったが効かず、営業一人一人が無駄な行動を重ねれば、部門や会社はすぐ追いつめられ犠牲が出る。現に私は犠牲者を出している…。
・営業の行動の方針はトップか部門長か営業本人が決める。方針が悪く結果が悪ければ、方針の提案者は責任を負うべきである。責任を負わない行動は行ってはならない。では責任を負うとはどういう事か…?(この項、続く)
第124回 『 匿名の葉書 』 7
- 2004/01/20(火) 15:00:00
・平成9年4月、橋本内閣は消費税率の3%から5%への引上げを行った。更に秋には健康保険料の10%の値上げを決めた。銀行の不良債権処理は先送り。まもなく日本経済は悪化し、秋には山一證券、三洋證券、北海道拓殖銀行の倒産等、金融不安が深刻化した。この夏、私は事態が容易でないと感じていた。
・創業以来30年間、私は営業については11人の部門長に丸投げにしていた。私と同僚の二人のトップは営業部門の運営に関与したが、腰の入ったものではない。営業所は各地に点在し、ここには120人前後、当社の約半数の社員がいた。120人の社員が日々どのような活動をしているか、私はほとんど何も知らなかった。トップが知らなければ誰かが情況を説明してくれたら良い。しかし、それを知っている人も、データを持っている人もいなかった。私はデータ作りから始めた。
【 営業を丸投げできた幸せ 】
・私はトップであるが、研究開発を専門として一日の大半を過ごしている。また事業の多角化も私の専任であった。それだけに30年間、営業を丸投げできた事は幸せであった。しかし、先のバブルの崩壊で当社は打撃を受けていた。気がついたら、低成長の時代でもあった。営業という未知の分野で自信がなく、本当は逃げてもいた。私は7年前のある日、決意をして営業問題に本腰を入れた。
・昨年1月の時点で、私の営業改革は6年たった。ところが何ということだろう。こんなはずではなかったが売上はこのうち5期、ズルズル減少を続けてしまった。昨年、私は営業目標を二桁成長と利益6%とした。この6年間の研究の成果として、営業に効果をあげる行動を発見していた。これを一ヵ月8件取れば、新人でも十分の数字を示すはずだ。これを経過目標として社員に必達するように命じ、6件をノルマとした。そして一年、ここでは外国人講師や日本人講師のような反対や反発は一切聞かれなかった。そしてその結果は…。
【 売上は二桁どころか117%を達成した 】
・まず売上は二桁どころか、117%を達成した。利益は総経費が売上と同じ17%上がってしまって、今、計算しているが1%以下となったようだ。昨年は2部門を除く9部門が毎月目標を達成していた。こんなことはこの10年間、初めての経験だった。お陰で営業について、ハラハラしながら数字を見守る習慣をなくした。これが、まあトップの油断でもあった。
・二つの部門が目標達成70%、80%台でうろうろしていた。一つの部門は戦略商品を担当する重要部門であった。たまたまこの部門の事務員の報告書に、K目標の数字が9月、29件に低下しているという記述に気がついた。10月半ば、トップの一人がここの部門長を 『ガツン』 とやった。するとこの時15件の数量が、月末たちまち80件に上昇、11月、12月も85件、65件の実績を残した。
【 私は例のK目標の数字をチェックした。すると 】
・もう一つの売上未達部門の問題は、年末12月10日前後に発見した。売上がなぜ悪いのか、営業社員の実績表を見たら入社2年4ヵ月と1年少々の三人の新人が不振であった。それはいい。私は例のK目標の数字をチェックした。すると三人とも3、4件…。 我々はこれは辞めてもらうしかないと判断し、部門長も同意した。
・翌朝になって私はたいへんなことに気がついた。あの新人たちに部門長はK目標のノルマは6件であること。君たちは毎月、このK目標を達成していないこと。一ヵ月3、4件の数字では解雇される可能性があると予告していたか…。
・トップは部門長に質問した。はたせるかな部門長は朝礼で全体にK目標を取りましょうと伝えたが、個人に個別の指導はしなかったと述べた。すると、新人に責任があるとして退職させることは誤りではないか。部門長はそれを認めた。責任は部門長にあるのではないかとたずね、部門長はそれも認めた。結局、我々は彼の部門長職を解任した。
・K目標については11部門のすみずみまで伝達されていた。当然、部門長も承知していた。では三人の新人はなぜこれを無視したか。部門長はなぜ個別の指導を怠ったか。そしてK目標3、4件という数字を許したか。実に不思議だ…。(この項、続く)
第123回 『 匿名の葉書 』 6
- 2004/01/13(火) 15:00:00
【 私と講師団はバトルをくり返した 】
・トップが執筆するコースに講師が反発することは、日本人講師にもある。基礎コース25年の歴史の中で、講師が私の指導に忠実だったのは最初の5年だけ、以降、私と講師団(5、60人)はバトルをくり返した。原因は20年前、新入りの個性派講師たちに、正統な指導技術がかきまわされてしまったことにあった。
・肝心な時、私は仕事に追われていた。暇を見つけて学校に駆けつけて矯正に当たったが、焼け石に水であった。間違ったリーディングは指導の要の手を抜くものであり、訓練生に無用の努力を強いる…。 これが講師全員に伝播し、かつて正しい指導をしていた者まで横着なやり方に染まっていた。
【 表現方法は創作者の権利なのだ 】
・訓練生に10年も教えている50人の講師たちが誤りで、東京で原稿を埋める財部がなぜ正しいのか。これが彼らの言い分だが、私が正しいのは当然である。映画の脚本でも音楽でも、その表現方法はすべて創作者の権利なのである。このためシナリオにはト書きが、音楽の楽譜には細かな指示が随所にビッシリついている。学校の諸コースは、内容と指導方式と実技指導がすべてセットとなっている。そして、他ならぬ私が3点セットを創作した。これを否定する人は俳優でも音楽家でも当校の講師でもない。
・まさに悪貨は良貨を駆逐する。それが学校の主力部門で起こりながら、私は新コースの開発やマーケティングに追われた。こうなると、社長の手でもどうにもならない。私は諦めずに中世の十字軍の如く、私の代理を度々学校に派遣して聖地の奪回を図ったが、1対50では勝負にならず敗北をくり返した。こうして社長と主力部門との確執は20年続いた。それは昨年ようやく解決を見た…。
【 とうてい手も足も出ないらしい 】
・外国人講師とのトラブルが簡単に解決したのは、金の力もあったがトラブルの性格にあった。私は新しい内容をコースに入れることを求めたもので、彼らの指導が誤りだから直すように求めたのでない。この問題があっさり解決したのは、これが原因であろう。彼らの身についた指導技術を変えよといったら、むつかしい問題になったかも…。
・すでに身についた技術 『オレのやり方』 を変えようという試みは、人々には許し難いことと映り、反発が起こるらしい。もしもこれを強要すると、思いがけない反発を招きかねない。それを強行突破を試みるなら、たとえば管理者養成学校の地獄の訓練の開発者で、創業者社長という程度の権威では手も足も出ない…。
・会社の中には問題がたくさんある。そこには多様な作業方式があり、やり方を変えれば品質、コスト、納期の数値が変化する。ここでは新しいやり方が模索され、効果的な方法を求めている。そしてある日、新方式で作業を統一しようということになる。改革、改善である。それをメンバーに伝え、彼らの方式を変える必要がある。この改善が成功するか否かは、彼らが身につけ習慣となっているやり方を、否定するか否か、全面否定か一部否定かである。上司の指示に従順な日本人だが 『あなたのやり方』 変えなさいと言われると、反発する。時に蜂の巣に手を突っ込んだような騒ぎになる。原因は長い時間をかけて身についた習慣は、これを変えることはたやすくないのである。従って社内の改善はたやすくは成功しない…。(この項、続く)
第122回 『 匿名の葉書 』 5
- 2004/01/06(火) 15:10:00
・小さな会社に存在する更に小さな事業、英会話(事業部)は昨年の年商は9000万円に終わった。このコースは夏休み、冬休み、ゴールデンウィークのきわめて短い季節商品であり、オフシーズンは休業のことが多い。シーズンの生徒数を2、3倍にできればいいが、仮にできても不定期の講師は簡単に増員し、講師として教育できない。
・この小部門の存続を巡って関係者の間でこの10年、二年に一度は話し合われた。 20年の歴史の中で売上は昭和62年の1.7億が最高である。つまり最盛期でボチボチの事業が、20年間たって年商9000万円…。見る影もない。事業は赤字ではないが、当社売上の4%弱の事業に人手と資金をさくことは得策ではない。20年を経て伸びる見込みがないものは、捨てるのが経営であろう。早く決断すべきだった…か?
・この場合の取るべき道は1.改革…、 2.現状…、 3.廃部 の三つしかない。1は人手と金がかかり、3は現に生きているものを自分(たち)の手で止めを刺すのは忍び難い。担当部門には何度か 「やめようか」 と声を掛けた。部門長はどうでも良さそうだったが、担当女性が私の代で廃止したくないと言った。事業はこうして生き残った。ところで、私たちのこの判断は先送りだったか…。
・ある事業を廃止すれば、その事業の研究製造販売に関する一連の技術やノーハウが会社の中から失われる。一旦離散すればこのシステムの再構築は簡単ではない。また、時代が変わればかつて見捨てられた商品が見直されることもある。そばで動いていれば、「エッ、どうなの」と目を止めることもできる。廃部はそれなりの判断を要する。
【 こうして事業の改革が始まった 】
・事業の廃止は競合するライバル社の、競合地域における戦力の質と量が判断の基準となる。英会話スクールは日本各地にゴマンとある。しかし合宿英会話となると、数はきわめて少ない。我々のシステムには英語教育のノーハウが詰まっていた。少ないがファンもいた。当社が合宿制の火を消したら、これを必要とする人の期待を裏切る事になる。教育の内容や販売面で、私はこの事業の可能性を十分に追求していない。今やめたら、後々後悔するだろうな…と思った。
・昨年初夏、こうして英会話事業の改革を始めることにした。私たちは改革を始めることで、問題の先送りの数度の経営判断を、一応生かすことができた。ここには廃部を持ちこたえた経営努力があったし、チャンスに打って出る余力を保持していた…。
・コースの改革とは新しい企画とシナリオの執筆であり、私が作業の中核になる。朝から晩まで、私はひとり自宅にこもって書き進めた。先頭に立つ経営トップに対し、外国人講師の反対がどの程度のものか判然としない。たんに反対だよと意見を述べただけかもしれないし、強く反対したのかもしれない。しかし現場担当者がビビり、部門長は問題に近寄ることもなかった。夏、私の計画は現場で頓挫し、これらを横目で眺めながら私は作業を続けていた。(この項、続く)
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