第117回 『 学校の歌ができるまで 』 2
- 2003/11/25(火) 16:20:00
『 旅立ちのとき 』 詞 財部一朗 曲 元橋康男
1.
要領とごまかしで長い坂はゆけない
仕事場は戦いの場半端ではない
やる気になって汗を流せど力なき悲しさ
いつか惨めな自分をみるだろう
年をとってほぞをかむなら今やるがいい
君よ知るか仕事ができて、人生の幸せ
ひらけゆく青空の大きさはどうだ
しなやかな若竹にできないということはない
2.
自分ができるというのは錯覚でしかない
奥が深くて厳しくてそれが仕事さ
一本の電話が人を動かし虚しく切れれば
君は基本の難しさを知るだろう
ときがあっさり過ぎるなら始めるがいい
君よ知るか前進を続ける亀のすごさ
迫りくる山々の雄々しさはどうだ
しなやかな若獅子に旅立ちのときが来た
3.
人はあいさつで結ばれそれなくて離れ
人は礼節で絆強めそれなくて孤立す
世界は海の向こうじゃない人の中にも
君が心開けば情けあふれるだろう
臆病に逃げるより体当たりがいい
君よ知るかそれが人間の運命を決める
砕け散る波濤の厳しさはどうだ
しなやかな飛魚に躍動のときが来た
・昭和五十四年六月に十三日間合宿 「地獄の訓練」 は第一回の訓練を開講した。初回の訓練生数は僅か六名ながら、七月以降は計画通り一カ月二回の開催ができていた。会社設立十二年、カセットテープ専業の社員教育研究所がライバル各社に先駆けて新分野に挑み、切り拓いて得た土壌であった。ここにようやく芽生えた新芽を、当社の経営を革新する第二の事業に育てねばならない。それが私に課せられた至上命令であった。そういう思いを込めて、研修を担当するチームのために私は特別の名称を用意した。
・管理者養成学校…、 それはこの上ない名称であった。重く、伝統を感じさせ、権威すらある。しかしその学校で行なわれる訓練コースがたった一つというのでは、せっかくの学校名が泣いていた。私は地獄の売行きを横目で睨んで、コースの開発を急いだ。
・青竹庵にはベテラン組は巣立ちをし、急にガランと淋しくなった。若い女性研究員が、なお四〜五名居残っていた。私は彼らを指揮して、新コースの開発に当った。新人または若い社員を対象とするコースとした。訓練コースを作るノーハウは第一作で経験していた。
・新コースは昭和五十四年十月に完成し、この月より開講した。名称は八日間合宿「新兵猛烈訓練」とした。地獄の訓練もそうだったが、この名称にも少し気が引けた。が、何よりも単純明快であり、訓練に派遣する経営者には訓練内容が分かりやすかったはずだ。このコースの第一回参加者は何と一名であった。
・新兵コースの訓練歌の詩をいつ書いたか、記憶にない。五十五年一月四日のコースが参加者五十八名という大幅増加を得て、静岡県富士宮市の青木校の本拠地作りがあわただしく進められた。かの五人の研究員も、せっかく上京して借りていた東京のアパートを畳んで、それぞれ富士宮市に移転して行った。五人のうち三名は入社、二、三年の二十代前半の独身女性であった。昭和五十五年という時代は、そういう心意気が残っていた時代であったかもしれない。
・昭和五十五年四月、青竹庵には誰もいなくなり、私は独り取り残された。作詩は多分この頃から、翌年にかけて行なわれたものと思う。作詩に当たり、訓練に対する新人さんの感想集は当然読んだはずだ。…が、私は教育コース開発者であり、新人への思いの丈は心に熱く溢れていた。詩に、若い人への私の思いを書きつらねた。それもあって詩は長いものになってしまった。
・記憶では私は自宅で詩を書きあげ、手書きの清書がファックスで拙宅に送られてきたはずだ。ファックスはまだなかったか…。ある時点でこれで良しとし、詩が完成する。読み返す。この長い詩にどんな曲がつくのだろう。あとは野となれ山となれだ。それから作曲家に電話をかけ、「できたよ」と告げたはずだ。この時どんな会話をかわしたか、全く記憶にない。
・しかしその後の事は良く記憶している。その夜私は詩を抱いて、京王線高幡不動尊近くの行き付けのスナックに出掛けた。研究員たちとよく来た店であった。マスターに「詩が出来たよ」 と差し出した。マスターは 「要領とごまかし」 という言葉がいきなり出て来る事に驚いていた。
・たまたま店にはビルのオーナーが客で来ていて、彼は詩を読むと、詩をもって自宅に引きこもった。やがて三十分もする頃、彼はカウンターに戻ってきた。私の詩は半紙に毛筆で、墨痕鮮やかに書かれてあった。この詩はその後も、壁に飾られていた。
冒頭の詩、「長い坂はゆけない」 の長い坂は、徳川家康の 「人生は重き荷を負いて長き坂を行くが如し」という言葉をテーマとした。当時、山岡荘八の著述を読んだか、大河ドラマでやっていたのかもしれない。
・読み返して、詩はなお新しい。新兵猛烈訓練はその後、「ビジネス成功の条件」 と名を変えた。
注・NHK大河ドラマ 徳川家康 昭和58年1月より1年間放映、詩はこの時期か。
第116回 『地獄の訓練が出来るまで』 11
- 2003/11/18(火) 13:50:00
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毎回内容を楽しみにしていますが、今回の十か条について私の感想を
述べさせて頂きます。
1.果たして記憶のスピードが速くなればそれだけで講師は満足なので
しょうか。 頭で覚えることと、 実際に行動に移すことが出来るか否
かは記憶力とは無縁と感じます。
( 2. 及び 3.前半省略 )
3. …ビジネスマンとしての基本を忠実に、そして徹底的に教育して
くれるのが管理者養成学校ではないでしょうか。
今回のメルマガを読ませて頂いて、非常に残念で悲しい思いがしまし
た。
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・前号のメルマガに対し、平成10年 454期 加藤勝利さんから苦情を頂いた。実はメルマガ8号で、地獄の訓練が追求する6大テーマをご紹介しておいた。管理者としての専門知識3項及びスピーチ力、ディベート力、報告の技術の実技3項、計6項である。つまり十ヵ条研修は主要6項に入っていないのだ。それは多分7番目に位置する、 …訓練であろう。
【 十ヵ条訓練の比率は5% 】
・主要6項がそれぞれ10%の比重を占めるなら、これだけで60%を占める事になる。すると十ヵ条訓練の比重は5%前後であろう。これに対しスピーチは6項の中でも特別で、その比重は20%もしくはそれ以上はある。しかもスピーチ訓練には発声、素読、歌唱訓練と人生の5年分を基礎からやり直すような徹底した訓練を必要とし、その用意をしてもいた。
・ところが十ヵ条訓練とその暗記に非常に多くの時間がかかった。たとえば初期の頃には、暗記にかかる時間は20%に及ぶというのが我々の実感であった。5%の比重の訓練としては明らかに時間のかけ過ぎであり、スピーチ等の主要な訓練の時間を奪い、訓練の成果に影響した。
【 暗記のスピードを2倍にする 】
・この為、十ヵ条暗記にかける20%の時間を削減することが何よりも必要となった。このため訓練生が比較的たやすく暗記できる指導技術の改革が行われた。これにより我々は十ヵ条合格日数を半減し、訓練生を苦しみから解放し得た。
・暗記のスピードを2倍にするキーポイントは何か。その原理は覚える努力をやめ、忘れる経験を自由に沢山やって頂くことである。記憶するのは忘れる回数であり、その回数を増やせば良いのであった。つまり講師はどんどん情報を提供し、訓練生は片っ端から忘れていく過程で、自然に記憶に定着していく…。
・454期、加藤さんが入校した平成10年には、この改善が一段落していたはず。 半数の訓練生の11日目の合格は、5日目までには改善されなかった。しかし7日には50%の人は合格できた。つまり、加藤さんは改善された技術で指導を受けられたと思う。が、この7日を5日にできたのは、今年行われた改善の結果であった。
【 ゴールデンタイムの活用 】
・地獄の訓練は一班14名に二人の教官がつく。一人が早番、一人が遅番である。13日の中で二人は交替で休暇をとる。二人の教官が一緒に働く時間帯に問題があると私は常々感じていた。第一教官のかたわらで第二教官は雑用を勤めていた。訓練生の質の向上につながる有効活用が、第二教官に図られていない。これまで度々、具体的な注意を行ったが、私の指導は教官たちに徹底できなかった。今年1月、この改善にとり組んだ。
・まず訓練には教官一人が14人を担当できる訓練がある。訓練生の数が6、7人と少ない方が良い訓練もある。私は訓練を二グループに整理した。そして二人の教官が勤務する時間はゴールデンタイムとし、この時間では一班を二つに分け、少人数訓練に限定した。またゴールデンタイム以外の時間帯には中人数訓練をやることにした。この制度が効果を発揮した。生産性があがり効果は多くの訓練に及んだが、とりわけ十ヵ条暗記で半数が5日目に合格するという副産物をもたらした。(この項、続く)
第115回 『地獄の訓練が出来るまで』 10
- 2003/11/11(火) 15:00:00
・たとえばトヨペット・クラウンが昭和30年に登場したが、クラウンができるまでを記述するトヨタマンは、期限をいつまでとするであろうか。まさか車が完成した日まででは、いかにも読者に不親切であろう。発売一年後か10年後か、20年後か。トヨタマンは当然20年後またはそれ以上を望むであろうし、地獄について私も同じ気分にある。クラウンについて、トヨタマンは語るべき事が沢山あるからだ。 …私も、学校もだ。
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いつも財部さんの苦闘記をお送り頂きありがとうございます。読
んでいて、訓練生であった頃を思い出し、そういう意図があった
のかと奇術の種明かしを見る思いです。
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・この項はすでに10回を数えた。当校・13日間合宿訓練の昭和62年卒業生 森永健二氏よりメールを頂いた。メルマガ受信者のうち半数の方は卒業生ではないと思いますが、すでに退屈されている方も多いと思う。一体いつまでこのテーマを書けばいいか、回を重ねるごとに迷っている。ただし、ここには考える作業の生きた事例がたくさんある。
【 ブームは意外に長期間、続いた 】
・地獄の訓練は昭和55年、突如ブームとなった。ブームは2、3年で終わるかと思っていたが、マスコミの取材は意外に長期間、続いた。実に10年間も…。お陰で学校には営業努力なしで、訓練生の増加が続いた。この事は教官の採用と養成。新訓練コースの開発。訓練施設の建設という難問を抱える学校には幸せであった。
・流石にブームは去った。マスコミ、特にテレビの取材がこの10年、めっきり減った。当然、人々は学校の存在を忘れた。…地獄は死んだ。それがまだ生きている。 「えっ、地獄の訓練はまだ続いているのか」 この感想は一般のビジネスマンだけでない。学校に訓練生を派遣された経営者も、あるいは卒業生本人にも驚かれる方がいる。ブームが去れば、多くの商品は消えていく運命にあり、学校も消えたと考えるのが常識であろう。
・ブームが去った後も学校は生き残った。この期間にはバブルの崩壊があり、デフレ不況が続いた。銀行の不良債権処理は進まず、すべてが先送りされる失われた10年であった。生き残りの現状は、11月1日コースには103人入校されている。 それは昭和55年11月1日の訓練生141人の数値に近い。
【 学校が生き残った理由 】
・学校はなぜ生き残ったのか。それは我々の訓練がそれなりの価値があったからだと思う。しかし主要な理由は24年間、訓練の品質を改善してきたからだ。これはトヨタマンが、自らのクラウンにも言いたいことであろう。
・その良い例に、当校の訓練に行動力基本動作10ヵ条がある。行動的ビジネスマンに共通する基本動作があるとすれば、それはどのようなものか。その10ヵ条を議論する。訓練生の合意を得た10ヵ条が卒業後のビジネス人生で役に立つとしたら…。これには、10ヵ条すべてを暗記して頂くしかない。それをしよう。
・第一条は次のようなものだ。「第一条 ぐずぐずと始めるな、時間厳守。行動5分前には所定の場所で、仕事の準備と心の準備を整えて待機せよ。」一条だけで字数は51字。 10ヵ条全体では603字になる。
・この暗記の合格基準は、100点満点の90点以上であること。一文字間違うごとに1点ずつ減点。2分以内で10ヵ条全てを言い終えなければならない。
・ところで訓練生たちは13日間のどこで合格するか。たとえば半数の訓練生が合格するのは何日目頃か。たとえば20年前、半数が合格するのは10日目ぐらいだっただろうか。暗記には大半の訓練生が泣かされていた。10年前には、半数の訓練生は8日目には合格していた。技術の進歩だ。ところで現在は、10月16日コースでは、50%の訓練生が合格したのはなんと4日目であった。11月1日コースでは5日目である。教育技術は日進月歩である(当校では)。 しかも、ここにはもう一つ重要な要素があった…。(この項、続く)
第114回 『地獄の訓練が出来るまで』 9
- 2003/11/04(火) 15:40:00
・昭和55年春、青竹庵で私はひとり上級訓練コースの開発に取り組んでいた。富士宮の学校では訓練生の増加に伴い、教官の採用と養成が急ピッチで進められていた。訓練を指導するため、私は時間を作って学校に通った。学校に一歩立入るとあちこちで散歩訓練や体操訓練が行われ、気持ちよい挨拶がかわされていた。
・ある日、学校を巡回していると、学校を見学に来られた経営者に紹介された。ドトール・コーヒーの鳥羽博道社長であった。キビキビと移動する訓練生を見やって「ここは別天地のようです。すがすがしい気持ちで一杯です」と誉めていただいた。「ドトール・コーヒーという社名、ダイナミックで素敵です。どういう事で付けられましたか」鳥羽社長によるとブラジルのリオデジャネイロに住んでいる時の、通りの名前という事であった。あれから23年たったんだ。この間ドトール社は躍進され東証一部に上場された。教育は変わらず当社をご利用頂いた。鳥羽氏とは同年兵というよしみで折々の交流を頂いた。
・学校へのマスコミの取材は続いていた。おかげで訓練開始一年の7月1日コースには134名の訓練生が入校した。この期の訓練にはNHKテレビが取材に入った。学校の訓練はこれで全国区となったようであった。23年前の映像はあまり覚えていない。画面には白い訓練服が印象的であった。訓練服について記述するのを忘れていた。昭和54年頃、当社のコンサルタントがインドを旅行した時の土産であった。詰襟の国民服のようなジャケットであったと思う。NHKテレビで夜間行進訓練は放映されたであろう。「学校の歌が出来るまで」社員教育新聞3月1日号で私は次のように述べた。
【 軍用リュックと軍用水筒 】
・地獄の訓練がスタートして間もない昭和五十四年夏、日野市の青竹庵で財部は若い助手の帰りを待っていた。暑い中、やがて助手が秋葉原から米軍払い下げの軍用リュック、軍用水筒、戦闘帽を買ってきた。丈夫な生地、頑丈な作り、リュック・水筒はグッドデザインで彼は満足した。帽子はサンプルの中から、ドイツ空軍の戦闘帽を選んだ。
・訓練に夜間行進を行う計画は、初めからあった。これらの装備は行進用のものだった。白い訓練服に草色の装備をつけると、絵になった。何事も徹底するというのが財部の主義だった。歩く距離は四十キロとした。これも、半端ではない。例の助手が千葉県館山市に飛び、四十キロのコース、チェック・ポイントを設定し、略図を作った。こうして夜間行進の準備は進んだ。
・たぶん九月か十月頃、初めての夜間行進がフルメタル・ジャケット(完全軍装)で行われた。(中略)
・この頃、テレビや週刊誌のマスコミが学校を取材し、四十キロに苦しむ人々が着けるフルメタル・ジャケットは、奇妙な現実感でテレビや報道写真の絵となり、人々を魅きつけた。
【 地獄の訓練のマスコミブーム 】
・この年の秋、三本目の訓練コース、「上級訓練」が完成し、学校の骨格ができてきた。マスコミの取材はあい変らず続いた。地獄の訓練一期130人の訓練生は年間24期なので、ざっと3,120人になった。当時の訓練費は248,000円だったので、売上は7億7千万となる…。マスコミの威力は目をみはるものがあった。マスコミは、この小さな訓練をスタートとしてすぐに嗅ぎ出し、競って地獄の訓練を追いかけた。突然のこのブームは、いつまで続くのであろうか…。(この項、続く)
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