第113回 『地獄の訓練が出来るまで』 8

  • 2003/10/28(火) 15:30:00

・地獄の訓練は13日間で、人々のどの点を教育のポイントとし、潜在する能力をいかに引き出すか…。このコースは管理者が身につけるべき基本、6項の習得が目的だ。6項は管理者としての専門知識を深める3項、及びスピーチ力、ディベート力、報告の技術の実技3項、計6項である。
・この実技3項は管理者に必須の能力である。しかし、これを身につけている人は少なく、この必須の能力を養成する学校やシステムが無かった。
・では実技3項の訓練はどのようなものか。スピーチ力の訓練を例にとり、具体的に説明したい。まず、これを研修項目とした理由は、管理者のスピーチをする力が乏しく、多くの人が自分の話し下手を改善したいと願っていることにある。問題は人々の具体的能力を変え得るカリキュラムはどのようなものか。それを我々は作ることが出来るか。学校の教官に指導ができるか、…であった。

【 覚悟していた難事業 】
・覚悟していた事であったが、この訓練は難事業となった。人々は単に話が下手だけでなかった。人々は声が小さく、か弱い。話し方にも難点があった。また、話に感情をこめることができないのだ。我々は声を作る基本からやり直した。ドレミファの発声訓練から始め、一日何度もくり返し、訓練生の声を鍛えた。
・次に話し方の難点の修正である。私は私の著作の中より感情移入のしやすい文章を抜き出し、素読の練習により言語を明瞭にした。また感情をこめるためにどうするか。これには感情を込めて歌をうたう歌唱訓練によって解決した。

・次にスピーチはどのように構成すれば良いか。スピーチの構成の仕方については起承転結ぐらいしか当時も今もノウハウがない。構成法がなければ作るしかなかった。このメルマガでご紹介した魔法の7項(昨年11月12日・指導力の源泉63)は、この時期に訓練生達のために私が考案したものだった。それはスピーチの内容作りに役に立った。
・いよいよスピーチ、まずスピーチのテーマを与える。サラリーマンが駅で「パンと牛乳」 を食べている光景を見て…。 このテーマをもとに訓練生は問題を発見し、自分達の手で、チームでスピーチを組立てる。この作業を教官がサポートする。こうしてスピーチを構成する柱、小柱が20本前後完成していく。当然この柱、小柱はすべて暗記せねばならない。

【 うんざりするような手間とヒマをかけて 】
・いよいよスピーチである。練習をする。同時にやっておくことがある。ある日訓練生は白い訓練服を脱ぎ、スーツ姿に身を固めてバスで学校を出発する。行先は富士宮駅前、ここで訓練生は一人ずつ 「セールス鴉」 を合格するまで歌う事になる。駅頭歌唱訓練だ。こうして人々は、人前で何でも為しうる度胸を得る。
・スピーチが始まる。14名の訓練生は一人ずつ審査員の前に立ち 「パンと牛乳」 というテーマでスピーチをする。始めは5点〜10点から始まり、やがて30点に、そして50点に達すると審査に合格する。6分または7分のスピーチ、この時彼は、ビジネスマンにとって健康がいかに重要かを認識する。
・これがスピーチ訓練だ。うんざりするような手間とヒマをかける…。二人の講師が14人の訓練生を朝から晩まで指導する。手抜きをしないで、完全に…。

・財部さん、ご苦労は分かるけどスピーチを一本作って演ずるぐらいで、本当に力が付くのだろうか。また訓練の効果はどの程度のものか…。そういう疑問を持たれる方もおられると思う。当然のご疑問で、私も当初スピーチは5本以上と考え、この訓練名を 「40の質問」 とした。しかし13日間という制約は厳しく、スピーチは3本のみとなった。 『時間厳守の意義』 『挨拶の効用』(70点合格)である。この為、発声、素読、歌唱及びスピーチ訓練は13日間続けられている。
・訓練の効果についてはなかなかのものと思う。具体的には言いにくいが、たとえば県会議員クラスのスピーチはできるのでは…。(この項、続く)

第112回 『学校の歌ができるまで』 1

  • 2003/10/21(火) 17:00:00

・昭和55年4月、青木校(富士宮市)の講堂に整列した95人の訓練生の数に、私は圧倒されていた。95人の人たちの前には、7班を担当する7人の第一講師が座っていた。紺系のスラックスに、訓練生と同じ白い訓練服を着用し両者見分けがつかなかった。ただ胸に着けた小さなネームカードの色が違った。両者を分けるもう一つのものは講師の首に黒い紐が懸けられ、胸のポケットに滑り落ちていた。ストップウォッチの黒紐が不思議な権威を持ち、人々を威圧していた。
・前号で私は95人の訓練生が、驚きの目を講師陣に送っていたと述べた。それは講師の首の黒紐に対してでは無かった。彼らの目は7人のうちの二人の講師に注がれていた。二人は女性であった。一人は30代半ば、一人は20代半ば…。二人とも静かに背を伸ばしていた。
・この二人は青竹庵の研究員だった。講師ができると判断し、育成していた。利用できるものはすべてを戦力に変えていたと先号で述べたが、この二人もその例であった。いや、二人は男性講師以上に戦力であった。なお前号で、20代前半の女性研究員が東京から富士宮市に移転したと伝えたが、その数は二名でなく三名であった。

【 訓練生とともに初めて校歌を歌った 】
・この日、学校の旗が完成し校庭で旗をはさんで私と元橋校長の写真があったと、校長より電話があった。すると校旗は国旗と共に校庭に翻り、入校式では講堂にも掲げられたはずだ。校旗は若鷲がシンボルマークをなっていた。校歌の詩の一節に若鷲があり、これをシンボルマークと指示したのだった。
・管理者養成学校校歌がいつ出来たか、はっきりしなかった。私は昭和54年12月に青木校を初めて視察した。冬枯れの寒々とした光景が広がっていた。校歌の詩はこの時の印象をテーマとした。

(一)
春いまなお遠く 風すさぶるところ
冷たき冬の水 この身を沈め
力なき者らが スクラムくんで
男の心すべて 捧げて悔いなき
君よその名をあげよ 若鷲よ

(ニ)
涙すでに涸れ果て 汗は血潮となりて
暑き真夏の太陽 この身をさらし
傷つける者らが 涙と汗で
管理者養成学校 管理者養成学校
君よその志をとげよ とこしえに

(校歌:財部一朗作詞、元橋康男作曲)

・校旗が4月1日には完成していたとするなら、校歌は2月か3月に完成したに違いない。するとこの日の入校式で、訓練生とともに私は初めて校歌を歌ったはずだ…。

【 私が実際に実演してみせた 】
・この日からほぼ一年間、時間を見付けて青木校に行き、私は現場で講師を訓練した。まず第二講師に指導のやり方を徹底して稽古を付けた。次に彼らをつれて7つの班を廻り、教えた事を実演させた。彼らの指導が間違うと生徒の前で容赦なくやり直しさせた。何となく地獄流だった。また私が実演してモデルを示した。次に第一講師に交代させて稽古した、朝から晩まで。地獄の訓練生は大変だが、講師はそれ以上に大変だった。
・私はセミナーであれ学校であれ講師や教師の経験は皆無であった。が、私にはその種の能力に恵まれているようだった。富士宮には何度も通い、訓練のやり方をチェックし、問題のある箇所を探し、その解決を工夫した。こうして学校の訓練の品質は向上した。(この項、続く)

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